2023
07/19
水
大阪府茨木市総持寺にあります『総持寺』(そうじじ)に行きました(^^)/
東側にあります
有料駐車場に
車を入れ、歩いて入口に来ました。入口には「西國二十二番總持寺」と書かれた石碑があります。ここはタイトルにもありますが、西国三十三所観音霊場の第二十二番礼所になります。


スロープを上ると石段上に「仁王門」が見えました。石段下の左手には「補陀洛山 総持寺」と刻まれた寺号標もありました。山号は補陀洛山で正式名称が寺号標の通りで、高野山真言宗の寺院になります。
寺号標の場所から、懸け造りの「開山堂」が見えますが、仁王門の後にお伝えします。
石段下の右手には手水舎もありましたので身を清めて進みます。
仁王門の手前に総持寺の説明板がありましたので、下記に記します。
総持寺には茨木市指定文化財の建造物として本堂・薬師金堂・仁王門・如来荒神堂・宝蔵・鎮守社・東門・庫裡・鐘楼が指定されています。
「総持寺は境内に数多くの近世建築物を残す寺院として府内屈指で、「承応元年絵図」(1652)や「摂津名所図絵」(1798)等から近世伽藍の移り変わりをたどることができます。
本堂は元禄一二年(1699)の再建当初に復元でき、内内陣をもつなど中世的な平面形式を伝え、仁王門は均整のとれた外観の楼門で、周辺では勝尾寺(箕面市)と久安寺(池田市)のみに見られます。
当寺院は古代における天皇行幸や貴族、天台高僧の参詣等があり、江戸時代になると境内で相撲や能興行が行われます。また、明治二八年(1895)の大阪府第四尋常中学校(現大阪府立茨木高等学校)の開校は、当寺院の庫裏で行われ本市の近代中等教育においてその舞台となるなど、総持寺の建築物は地域の歴史と文化を語る上で欠くことのできないものとして指定されました。」
仁王門正面ですが、石段上からは全景が
撮れないので下からの
撮影です。扁額は「補陀洛山」と山号が書かれていました。2枚目の仁王像はかなり古そうです。


仁王門は江戸時代中期の建造で茨木市指定文化財となっています。
「三間一戸、入母屋造、本瓦葺の楼門である。建立年代についてはこれを明らかにする史料は無く、寛政10年(1798)に刊行された『摂津名所図会』に現在の門と同形式の楼門が描かれており、遅くとも18世紀後半には存在していたことがわかる。建築技法などから元禄年間(1688~1702)の建立と推測される。仁王門は総持寺では山門とよび、寺の正門として象徴的な建築物である。左右に金剛力士像を祀り、この門から先が聖域であることを表している。
楼門形式の門では、大阪北摂地域では勝尾寺(箕面市)、久安寺(池田市)と総持寺山門のわずかに3棟のみが現存する。」
仁王像は南北朝時代(14世紀)の建造だそうです。
「阿形(あぎょう)像は像高227.5cm、吽形(うんぎょう)像は像高226.7cmで山門内にて左右一対で祀られる金剛力士像である。両像ともヒノキとみられる針葉樹材による寄木造で、目には玉眼を用い、表面には彩色が施されていた痕跡が残る。頭部の大きめなプロポーションや、肩を怒らせ四角張った上半身、分厚い下半身の表現は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての作例の特色である。」
仁王門をくぐり境内を一望します。正面が本堂になります。
寺号碑の場所で見た「開山堂」です。正面は唐破風の庇があるこちらだと思いますが、縁側があり直接中には行けない造りとなっています。
まぁ下が懸け造りってこともありますが…(^^;)
「開山堂は総持寺を創建した、中納言藤原山蔭卿を祀る。現在の開山堂は旧堂が平成7年(1995)の阪神淡路大震災により被災後、平成18年(2006)に再建されました。
入母屋造り、本瓦葺きで大阪府内では類例の少ない「懸け造」の建築である。
堂内厨子に安置される藤原山蔭卿の尊像は、正保2年(1645)に仙台藩主伊達公の寄進によるものである。」
開山堂の北側には木製の明神鳥居があります「五社稲荷社」がありました。奥の御堂は檜皮葺でしょうか、かなり立派なものでした。
その右隣には塔婆供養の地蔵尊と、その向こう側に見え、池の中に鎮座する「閻魔堂」です。閻魔堂は入母屋造りで唐破風付きとなっており、これも檜皮葺なのかな?
仁王門の右側には「庫裡」がありました。右手奥にはレストランもあります。
左側には指定有形文化財の鐘楼があります。
庫裡の隣には「弘法」の扁額が掛かる「大師堂」がありました。その手前には小さい祠の「水天社」がありました。

御朱印は西國の御詠歌です。
おしなべて 老いも若きも 総持寺の 佛の誓い 頼まぬはなし
場所:総持寺





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