2023
04/20
木
熊野那智大社に続いては、『青岸渡寺』(せいがんとじ)です(^^)/
隣にありますので、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山まで同じで番地違いとなります。
参道の分かれ道として道標には「右 西国第一番礼所 那智山青岸渡寺」と刻まれています。内容通り、山号は那智山で、青岸渡寺は西国三十三所観音霊場の第一番礼所となっています。
熊野那智大社では一の鳥居からお伝えしましたが、表参道脇には土産物屋なども軒を連ねていました。
分かれ道を青岸渡寺側に進むと、最初に堂の名前はわかりませんでしたが「観世音菩薩」が祀られた小さいお堂がありました。
山門前には見えにくいですが「西国第一番根本礼所 なちさん霊場」と書かれた石碑があります。寺号碑が見当たらなかったんですが、これが寺号碑なのかは不明です。
石段を上がった先には「山門」があります。ガラス張りの中に金剛力士像(仁王像)が安置されていますので、「仁王門」でもあります。説明板などが特になかったので詳細はわかりませんが、昭和八年(1933)の再建で、金剛力士像は運慶作のようです。(本堂にある説明板より)
山門(仁王門)をくぐると、まだ石段が続きます。後ろを振り返ると山門の裏側には何故か狛犬が安置されていますので、神仏習合の名残でしょうか?
訪れたのは12月初旬でしたが、この地域は山々の
紅葉があまり見られませんでした。山門にかかる大木が紅葉してると綺麗なんですがね~(-_-)

石段を登った上にはイチョウの葉を生けた手水鉢がありました。この水は「延命の水 清浄水」とあり、那智の大滝からの水源のようです。
境内に入ると正面に「本堂」があります。「那智山如意輪観世音菩薩」の大きなノボリが正面に取付けられていました。如意輪観世音菩薩が御本尊となります。
「本堂」は杮(こけら)葺き入母屋造りで桁行九間、梁間五間、一間向拝付きです。天正十八年(1590)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
本堂前には大きな世界遺産の石碑がありました。隣の石碑には「長久丸船主 大門長一翁頌徳碑」と書かれていました。調べましたが詳しいことはわかりませんが、那智勝浦町での功労者の方だろうと思われます。
石碑の後ろには、境内全景図がありました。
境内全景図の横には略縁起と主要な建物の説明が書かれていましたので、縁起を下記に記します。
「当山は仁徳帝の頃(313-399)印度より裸形上人が熊野の浦に漂着、現在の堂の地に庵を結んだのに始まると伝られている。その後、推古帝(593-628)の時大和より生仏上人が来山し、玉椿の大木をもって、現在の本尊(御大約四米)を彫り、裸形上人感得の観世音菩薩を胸仏として納め安置す。のち推古帝の勅願寺となり、那智霊場の中心として熊野信仰を育くんできた。従って御本尊如意輪観世音菩薩の霊験を受けんとして、日夜礼拝修行する者その数を知らず、又天皇上皇の尊崇も深く、殊に平安時代、人皇六十五代花山上皇が滝の上の山中に庵を造り、三ヶ年御修行の後、当山より西国三十三ヶ所観音礼場巡拝の旅に出られた。当時より長きに亘り巡拝の寺として親しまれている。当山は古くより那智山如意輪堂と称していたが明治の神仏分離によってその形態が変り以来青岸渡寺と称するようになった。現在の建物は天正十八年、豊臣秀吉公が、発願再建されたもので桃山時代様式の建物として南紀唯一の重要文化財である。」
本堂正面から見た屋根の杮葺きがとても美しく感じられます。
今回はここまで。次回は本堂からお伝えします。
御朱印は西国三十三所の御詠歌
「補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」と書かれています。
場所:青岸渡寺





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