2023
03/06
月
紀州東照宮に続いては、西隣にありました
『和歌浦天満宮』(わかうらてんまんぐう)です(^^)/
入口前にある
駐車場に
車を入れ、すぐの所に石鳥居があります。鳥居の扁額は金縁黒地に金文字で天満宮と書かれています。


鳥居の左手には、由緒及び沿革が書かれた掲示板がありましたので、記載しておきます。
「醍醐天皇延喜元年春(901)右大臣菅原道真公は筑前太宰府に左遷せられ赴任の時、海上風波を避難せられ暫時、此の和歌浦の地に立寄り地元漁民達がこれをお迎え申し上げ綱を巻き、円座を作りここに休まれました。世に綱引天神とも申されます。風波静まり、御船で御任地に向かわれる時、
”老を積む身は浮船に誘はれて、遠ざかり行く和歌の浦波 ”
”身ざりつる古しべまでも悔しきは、和歌吹上の浦の曙 ”
二首の御歌を詠じられ、遠く太宰府へ旅立たれました。
その後、人皇六十三代村上天皇の康保年間(964~968)に至って、参議橋直幹が太宰府より帰京の途中御船を停め、菅公を追慕し、此地に神籬を立て道真公の神霊を勧請してお祀りし、宝殿を営築したのが当社の始まりです。
藤原公任卿の詠歌に
”和歌の浦の天満宮や日の本の三の名だる一つとぞきく ”
とあるように、当社は古来より太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。
古くより朝野の崇敬が篤く、又、寛治四年(1090)には白河上皇が熊野行幸の砌、藤白の嶺より和歌浦に遊覧し、当社に詣で菊花御紋章の御幕を奉納しています。以後当社では近年に至るまで梅花と並んで菊花を社紋として用いていました。
天元年間(978~983)には道真公の曽孫に当る菅原有忠公が紀伊守に任ぜられるに当り、太刀一振を奉納しています。
天正十三年(1585)には兵乱に遭遇し、社殿、宝物、古記録とも烏有に帰し、一時荒廃しましたが、その後紀州藩歴代の藩主の深い信仰と加護によって繁栄し、現在の社殿は慶長九年(1604)紀伊藩主浅野幸長公によって再建に着手され、慶長十一年(1606)十一月に見事に復興しました。これが現在の社殿であります。
元和五年(1619)浅野家に代り、徳川頼宣公が紀伊守に任ぜられ、東照宮の創建地を当社の境内の一部に求めるに当り、当社を和歌浦の地主神と定めて篤く崇敬し、寛文四年(1664)に神田を加増し、二十五石を寄附されました。
江戸時代を通じて社家安田能登守が天満宮、東照宮両社の社官として明治維新まで奉仕しました。」
上の由緒が書かれた掲示板の横に、”絶景の宝庫 和歌の浦 ”と銘打った「日本遺産」の掲示板もありました。本殿と楼門、末社2棟が国の重要文化財の指定を受けています。
「康保年間(964~968)に学問の神・菅原道真をまつって創建し、関ヶ原の戦い(1600)後に紀州に入国した浅野幸長が、慶長11年(1606)に再興した。豪華に装飾された社殿は、後に江戸幕府の大棟梁(建築部門の総監督)となった平内政信が手がけた。楼門から振り返ると、和歌の浦から紀伊水道まで一望できる。」
鳥居をくぐり参道から上に建つ「楼門」を見ていますが、夕方に近く
陽が沈みかけているので、影で若干暗くなってきました。

石段を登る手前右手に「天満神社」と書かれた社号碑がありました。石段の手前には木彫りの牛かな?天満宮だと撫で牛がありますが、それなのかな?(^^;)
石段の左側には建造物の国指定重要文化財記載がありました。
「天満神社は和歌浦を望む丘陵の中腹にあり、和歌浦一帯の氏神となっている。社伝によれば平安時代中期(10世紀後半)に創建されたといわれ、菅原道真公をお祀りしている。
現在の社殿は、天正13(1585)年豊臣秀吉による紀州攻めの際に焼失したものを、慶長11(1606)年に浅野幸長が再建させたものである。本殿は桁行五間、梁行二間、入母屋造で、正面に三間の向拝がつく檜皮葺の建物である。入母屋造であるが、正面に千鳥破風をつけているのは類例の少ない形式である。建物中央部分の身舎は円柱に斗栱を置いて深い軒をつくり、斗栱をはじめ長押、虹梁などに極彩色を施している。また、周囲には鶴亀・鳳凰・麒麟や、浪・滝・草花などの蟇股彫刻を配している。
このように本殿には雄麗であるとともに雅趣ある装飾が多く施され、桃山時代建築の特徴をよく示している優れた歴史的建造物である。
末社の両社殿は本殿東側後方にある。多賀神社本殿は一間社春日造、檜皮葺である。天照皇太神宮・豊受大神宮本殿は二間社流造、檜皮葺で、一間の向拝がつけられている。両本殿は、形式は異なるが細部はよく似ており、建築様式からみて慶長年間の再建時に建立されたものと考えられる。本殿・楼門とともに社殿の一環として重要な建造物である。」
石段途中の踊り場に手水舎がありましたが、使われていませんでした。
石段は乱積みしてあるので、普通の階段とはちょっと違った趣がうかがえます。
この「楼門」が国の重要文化財となっています。扁額には「高陽門」と書かれていました。
「楼門」正面に見えるのが、「唐門」で、その後に「本殿」が見えます。「楼門」後ろには和歌浦湾を一望できる絶好の眺望が広がります。
1枚目は先程の「楼門」から見た「唐門」とあまり変わりませんが、「唐門」は檜皮葺で入口前には柵を置き、周囲を透塀で囲っているので、中の本殿は見ることができません…(-_-)
「本殿」は説明板にありましたが、檜皮葺き入母屋造りで正面に千鳥破風を設けた形です。
「唐門」前にある賽銭箱の前でお詣りをさせていただきました<(_ _)>
「唐門」から見える「本殿」向拝の蟇股や斗栱の豪華な極彩色で彩られた彫刻が素晴らしいです。
入母屋懸魚下の妻壁の化粧も極彩色の彫刻が施されていました。
「本殿」の右側には、国の重要文化財となっている天満神社末社の「多賀神社」(左)と「天照皇太神宮豊受大神宮」(中央)があります。因みに右端は国重文ではありませんが、末社の「白山比賣神社」です。
境内右奥には各種の摂末社がありました。
「本殿」左側には、学問の神様なので「筆塚」がありました。
「楼門」左にありました「社務所(授与所)」にて御朱印をいただいて参りました。
「楼門」両脇は建物として造られていました。「本殿」は全景を写せないのが残念でした。
御朱印
場所:和歌浦天満宮





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