2023
02/19
日
和歌山縣護國神社の参拝後は『和歌山城』(わかやまじょう)です(^^)/
一旦南側の道路に出て
写真の場所に向かいました。

石垣に付随した門がある上に、チラッと見えるのが「天守閣」です。
門前には「史蹟 和歌山城」と刻まれた石碑がありました。近くには城内案内図がありましたが、今いる場所が右下になります。
先程門の上に「天守閣」が見えました門が写真の「岡口門」です。和歌山城は国指定史跡となっていますが、「岡口門」はここで唯一の国の重要文化財に指定されています。
和歌山城の史跡が書かれていました。
「天正十三年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建した平山城が和歌山城です。「和歌山」という地名は、この頃の秀吉の手紙に初めて登場します。城造りの名人として有名な藤堂高虎らが普請奉行を勤めました。和歌山城は、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえるでしょう。和歌山城は別名虎伏城・竹垣城とも呼ばれます。
豊臣秀長は大和郡山を居城としたため、但馬竹田城主だった桑山重晴が、秀吉の命で秀長の家老となり、城代を勤めました。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となります。この豊臣・桑山時代に山嶺部分や岡口の整備に取り組みました。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が三十七万六千石の領主となり、城の大規模な増築を行ないます。連立式天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。城の正面である大手門を岡口門から一之橋の門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。
元和五年(1619)、徳川家康の十男・頼宜が五十五万五千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立します。同七年、幕府より銀二千貫を賜り、二の丸大奥部分を拡張するため西内堀の一部を埋めたて、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となりました。
紀州徳川家は、「南海の鎮」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出しました。黒板張だった天守閣は、寛政十年(1798)十代藩主治宝の命で、白壁塗りの白亜の天守閣となります。しかし、落雷により弘化三年(1846)天守閣は焼失。幕府から「有形の通り」との条件付きで許しを得て、嘉永三年(1850)に再建されました。
明治四年(1871)の廃藩置県により陸軍省の管轄となりました。明治三十四年和歌山公園として一般に公開され、同四十五年に和歌山市に払い下げられます。昭和六年(1931)に国の史跡に指定され、同十年には天守閣が国宝となりますが、同二十年七月九日の和歌山大空襲で焼失。戦後市民からの要望もあり、昭和三十三年に鉄筋コンクリートで復元されました。
空襲で焼け残った江戸初期の遺構である岡口門と土塀は昭和三十二年(1957)重要文化財に、西之丸庭園は同六十年に国の名勝に指定されました。」
重要文化財の「岡口門」を城内側から見ています。解説は下に記載しておきます。
「和歌山城は天正13(1585)年に秀吉の命で弟の羽柴秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きましたが、この時は南東部の岡口門を正門である大手門としました。広瀬通り丁が大手筋で、熊野街道につながっていたのです。和歌山城の東側の地域は、中世では雑賀庄の岡と呼ばれていたので、この名がつきました。慶長5(1600)年、浅野幸長が城主となります。浅野時代に大手を一の橋の門に変えましたが、引き続き重要な門として機能しました。元和5(1619)年徳川頼宣が入国する際、浅野家が提出した引き継ぎ目録に、門の一階部分に「畳三帖有」とあり、今の形と違います。元和7年に城を拡張した際、現在の門に整備したと考えられています。
徳川時代、城の内郭へ入る門でニ階建ての櫓門形式の門は、岡口門と吹上大門だけでした。門の二階部分は北側に蔵が、南側には二階建ての櫓が続いていましたが、現在取り払われ、切妻のような形になっています。岡口門は空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構で、北側の土塀とともに昭和32(1957)年に重要文化財に指定されました。土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間が開けられています。」
「岡口門」からは城内を通って敷地北側にある城の正門にあたる「大手門」に向かいます。城内はとても綺麗に整備されており気持ちよかったです(^^)/

「大手門と一の橋」について書かれていたので記載しておきます。
「和歌山城の内郭(二の丸より内側の地域)への正面の門、この門を出た所一帯が三の丸である。江戸時代の中頃まで「一之橋御門」と呼ばれていたが寛政八年(1796)に「大手門」と改称された。明治四二年(1909)に倒壊したが、昭和五八年(1983)に古写真などにもとづき復元された高麗門形式と呼ばれ間口約十一メートルである。門に架かる「一の橋」も翌年復元された。徳川氏が入国する前の浅野氏の時期には、それまでの城の大手であった岡口門をこの地に変更し「御門」や「北ノ橋」と呼んでいた。」
続いては城の北側を流れるお堀に沿って西に向かいます。
西堀前に来たところで、和歌山城の撮影ポイント看板があったので
撮ってみました(^^)/

西堀に架かる「御橋廊下」(復元)の上に「天守閣」が見える絶好の撮影場所です。更に西に行った開けた場所では「天守閣」と天主曲輪が見られます。右端は「乾櫓」になります。
西角にありました駐車場側から城内に入り、前回紹介しました「和歌山縣護國神社」の社号碑があるすぐ西に「追廻門」がありました。
「追廻門」は市指定文化財となっていて、ここ唯一の丹塗りの門です。
「追廻門は西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名がついた高麗門形式の門です。元和5(1619)年に紀州徳川家初代頼宣が入国し、和歌山城を拡張して砂の丸や南の丸を内郭に取り込みました。当然、追廻門もその際に建立されたもので、岡口門とともに空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。
吉宗に次いで14代将軍家茂を出した紀州徳川家は、幕末には当然幕府側につきました。第二次長州戦争には先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2(1866)年に津田出を登用しました。だが翌年、保守派の反撃で津田は失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。左手の石垣に近い垣根の奥にある石碑は、田中善蔵の顕彰碑です。」
「追廻門」から、来た道を少し戻った「鶴の門跡」を東に進みます。右の野面積みの石垣がある方は「鶴の渓」と呼ばれ、天守と西の丸の間のくぼんだ地形です。ここで鶴を飼っていたので名前が付いたようです。
道の北側に「名勝和歌山城西ノ丸庭園(紅葉渓庭園)」がありました。
「この庭園は、紀州徳川藩祖頼宣公が西ノ丸御殿に築造したもので、昔から紅葉渓の名で親しまれてきた。浅野時代に築かれた内堀の一部と虎伏山の山稜地形を巧みに利用した起伏の変化に富んだ庭で、南西の高台地には、雄健な三つの滝とその落水を導く渓流、美しい出島と巨大な舟石が浮かぶ池、柳島のある堀池からなり、急峻な斜面や護岸には緑色や紫色などの紀州の名石で、豪快な石組が施されている。
紅葉渓橋・土橋・石橋をかけ、鳶魚閣・腰掛・茅門の建物が要所にそなわり、古い樹林が興趣を添え、その破墨山水的景観は、江戸時代初期に作庭された名園である。なお、茅門南の鶴之渓は、浅野氏により造られた城壁に囲まれ、当時、「鶴之餌鉢」を置き、鶴が飼育されていた由緒あるところである。」
庭園からは堀に浮かぶ(手前)「鳶魚閣」と「御橋廊下」が見えました。
「西の丸庭園」を出て、更に東に進むと、「二の丸」前に天守入口がありましたので中に入ります。
しばらく登ると「本丸御殿跡」がありました。下の説明板に書いてありますが、この塀の奥が本丸御殿跡のようです。
「和歌山城のある虎伏山はラクダの背のように東西に峰があります。天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長が先ず築城したのは、この山頂部分でした。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった浅井幸長は、城の大規模な修築を行ないます。山頂部分では、西の高い峰に現在の形に近い黒板張りの天守閣を新たに築いて本丸とし、東の低い峰に御殿を建てて二の丸としました。東のこの部分は東西29間(約57m)、南北27間(約53m)で不等辺五角形の形をしています。
元和5(1619)年に徳川頼宣が入国すると、山頂全体が本丸となり、東の峰は本丸御殿と呼ばれます。しかし、地形的に不便で手狭なため、ときたま謁見の場として利用するぐらいで、ほとんど空屋敷となりました。ただし、正月行事である三日の謳初は、本丸御殿で開いています。また、幕末に短期間でしたが、参勤交代が中止となり、江戸藩邸にいた藩主の正室(御簾中)たちの帰国が許されると、本丸御殿を一時使用しています。
明治時代、廃藩により本丸御殿は解体され、御台所は市内大垣内の光恩寺に移築されています。本丸御殿の中庭は七福の庭と呼ばれ、七福神を表現した石組がありましたが、給水場が設置されることになり、大正12(1923)年に工事が始まると、現在地の松の丸へ移されました。」
「本丸御殿跡」から見た「天守閣」になります。右の小さいのが「小天守」です。
今回はここまでです。次回はいよいよ「天守閣」に入りますので乞うご期待(^^)/
御城印は次回ご覧に入れます。
場所:和歌山城





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