2023
01/20
金
六波羅蜜寺に続きましては、同市東山区清水八坂上町にあります
『法観寺』(ほうかんじ)に行きました(^^)/
「法観寺」と言われてもあまりピンときませんでしたが、表題の「八坂の塔」なら知っていました。八坂通りを東に進むと、見えてきました「五重塔」、この通りから見た風景は、あまりにも有名です。
八坂通りの突き当たりに「法観寺」はあります。
塀には「臨済宗建仁寺派 霊応山 法観禅寺」の表札が掲げられていました。又、門柱には「日本最初之宝塔」と「聖徳太子御建立」と書かれています。
行った時はコロナも緩和されていましたので、京都の町も活気を帯び始めていました。
全景を
撮るには、境内南西の広い通りの後ろから
撮るのが一番かなぁと思います(^_^)v


南側に入口がありました。入口すぐ裏に拝観受付がありますので、拝観料400円を納め入場します。「八坂の塔」は国の重要文化財に指定されており公開中となっていました。
「法観寺」には本堂はなく、堂宇としては「聖徳太子御堂」「薬草王身夢見地蔵尊」「木曽義仲公首塚」他があるようです。拝観時間は午前10時~午後3時までのようです。
境内内部は部分的に日本庭園となっていますので、四季により景観が変わって見られるのがとても楽しみです。
まずは境内北側で「五重塔」の真北にありました「太子堂」です。本瓦葺き宝形造りで頂部の路盤が凝った形をしています。入口上には「太子堂」と書かれた扁額があり、中央の須弥壇にはたぶん聖徳太子像かと思われます。
続いては、「太子堂」の右側に同じような建物ですが「薬師堂」です。薬草王身夢見地蔵菩薩像や薬師如来像など多くの像が安置されていました。
境内の東側奥には「八坂稲荷神社」と「木曽義仲首塚」がありました。
首塚の
写真は怖いので撮ってません(^^;)ので、説明板の内容を下に書いておきます。

「木曽義仲は、源義朝の弟義賢の二男で、頼朝、範頼、義経兄弟の従兄弟にあたる。
幼くして父を失い、乳父中原兼遠によって木曽(長野県)で養育された。治承四年(1180)に源頼政と養子仲家(義仲の兄)らが反平家の旗をあげるが敗死。これを聞いた義仲も木曽で挙兵すると、北陸から軍を進めて平家の軍勢を次々と撃破し、寿永二年(1183)には入京して、朝日将軍と呼ばれた。
しかし、義仲は翌三年一月二十日、東国から攻め上ってきた範頼と義経の軍勢に敗れ、瀬田(大津市)へ逃れる。ともなってきた兼遠の娘巴や、同じく兼遠の子である今井兼平が奮戦するが、義仲の乗馬が深田に足をとられ、粟津で討ち取られた。三十一歳であった。
義仲の首は京都にもたらされ、二十六日に東獄門脇で晒された。その後、京都に残っていた家来の一人がその首を葬らせ、朝日塚と称したという。」
稲荷神社前からの「五重塔」です。
東方にあります入口からは大円境智阿閦如来(阿閦如来)が安置されています。
西方には妙観察智阿弥陀如来(無量寿如来)と法界体性智如来(大日如来)、南方に平等性智如来(宝生如来)、北方に成所作智釈迦如来(不空成就如来)五体の五智如来が御本尊となります。
多層塔としてはとても珍しく、塔内部は二層目まで上がることができます。注目は塔を支える「心柱」です。初層の礎石から頂上まで通り、この塔を支えています。
1枚目は「心柱」を下から上を見上げています。2枚目は二層目から見下げています。
二層目からの外の状態を見ています。本瓦が綺麗に並んでいますが、軒先部分の4列くらいに平瓦が上にかぶせてあるのは何なんだろう?
1階には「五重塔」の詳細図(部分平面や立面図、矩計図)が書かれた資料がありました。これを見ると先程の軒先亙部分は見たとおりに書かれていました。
資料では「五重塔」は室町中期の永享十二年(1440)の再建のようです。
「心礎」です。
「創建当初の物で、壱千四百年前の礎石である円形舎利孔、石蓋孔、凹柱座のある三段式にて飛鳥時代の様式を留める。
崇峻天皇二年(589)聖徳太子はこの礎石に仏舎利三粒を納め、法観寺と号したという。京都における仏教文化の起源であり、また日本に於ける仏舎利信仰の原点とされている。殊にこの心礎には、全国で僅か二例という丸い石蓋を今日も残している。
長径九尺、短径七尺の松香石が据えられている」
最後は、東南の方角から見た「八坂の塔」です。
御朱印は最初之受付で頂けます。真ん中は五智如来。
場所:法観寺





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