2022
12/21
水
霊山観音のお参りを済ませ次に向かいましたのは、
京都府東山区祇園町にあります『八坂神社』(やさかじんじゃ)に行きました(^^)/
まずは表参道の入口に立つ「石鳥居」です。建立は正保三年(1646)ですが、寛文六年(1666)の補修再建され、国の重要文化財となっています。鳥居の柱が途中で繋がれているのが、補修されたっぽくていいですねぇ~
社号標には旧社格の「官幣大社 八坂神社」と刻まれています。
現在は神社本庁の別表神社です。
鳥居をくぐると「南楼門」が見えます。明治十二年(1879)の建立で、こちらも国の重要文化財となっています。銅板葺き入母屋造りで丹塗りが豪華さを表現しています。
楼門をくぐり境内に入ると、正面には「舞殿」があります。
すぐ左手には「手水舎」がありました。中に入ると自動で水が出始め、センサー式の手水となっていることに驚きました。この「手水舎」も国の重要文化財となっています。
「手水舎」の奥には、授与所が付いた「社務所」がありました。
「舞殿」の全景です。銅板葺き入母屋造りで3段にぶら下げられた提灯が豪華さを装っています。明治三十六年(1903)の建立で、こちらも国の重要文化財となっています。
「舞殿」の奥にあります「本殿」です。本殿と拝殿が大屋根一つで覆われた建物となっており、八坂神社独自の建築様式のようです。承応三年(1654)の再建で、檜皮葺き入母屋造りの「本殿」は国宝に指定されています。
御祭神は、中御座に素戔嗚尊(すさのをのみこと)、東御座に櫛稲田姫命(くし(い)なだひめのみこと)、西御座に八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祀ります。
「本殿」向拝にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
「あらゆる災難を意味する八俣大蛇を退治して櫛稲田姫命を救い、地上に幸いをもたらした素戔嗚尊を主祭神に、后神・櫛稲田姫命と素戔嗚尊の八柱のお子様をお祀りしております。
古くより【疫病除け・災難除け・家内安全・商売繁盛・恋愛成就】等、人々の様々な祈りが捧げられてまいりました。
中でも疫病除けの信仰篤く、京の町を疫病から守るためにはじまった祇園祭(七月中)は、千百五十年余りにわたり受け継がれ、日本を代表する祭礼となっています。
八坂神社の本殿は、本殿と拝殿を一つの屋根で覆い、さらに周囲にいくつもの小部屋を配した独特なつくりをしており、社殿建築の中で最大の床面積をもちます。
この形になったのは平安後期頃とされ、以来再建を重ねても変わることなく大切に受け継がれてまいりました。
現本殿は、江戸時代の承応三年(1645)、徳川四代将軍家綱の命により再建されたもので、令和二年十二月二十三日、国宝に指定されています。」と書かれていました。
境内の東側には南から「能舞台」と、その隣の「斎館」です。「能舞台」では毎年1月3日に初能奉納やかるた始め式が行われ、「斎館」は神事に奉仕する神職が身を清める場所となっています。
境内東側(舞殿と本殿の東側)の通り沿いには沢山の摂末社が並びます。
その中程にありましたのは「忠盛燈籠」です。
「永久年間の頃(十二世紀)白河法皇が祇園女御の許に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。
法皇は供の平忠盛に討取ることを命じられたが、忠盛はその正体を見定めての上とこれを生捕りにしたところ、油壺と松明とを持ち燈籠に燈明を献ろうとしていた祇園の社僧であった。雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯の光をうけて銀の針のように見えたのであった。
忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったと云う。この燈籠はその時のものといわれている。」と、書かれていました。
境内西側(舞殿と本殿の西側)には、手前に「納札所」、その奥に末社ですが重要文化財の「大年社」があり、摂末社にも数多くの重要文化財があるようです。
「舞殿」と「本殿」が並ぶと威圧感が凄いです。
最後ですが、こちらの「西楼門」ですが、両側の「翼廊」と共に国の重要文化財となっています。
祇園社と書かれた御朱印です。
場所:八坂神社





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