2022
12/01
木
今回は、前回の出張とは違う日の出張で訪れました、福井県坂井市丸岡町にあります
『称念寺』(しょうねんじ)に行ってきました(^^)/
まずは境内北側にあります
駐車場に
車を入れ、西側の山門入口に来ました。


左側に「時宗 長林山 稱念寺」(稱の字は称の旧字)と刻まれた寺号碑があります。"時宗"とは鎌倉時代の後半に活躍された一遍上人を開祖とする"時宗"という宗派の事です。山号は長林山、書かれていませんが院号は往生院で正式名は長林山往生院称念寺となります。
右側には「史跡 新田義貞公墓所」の石碑があります。境内には史跡として墓所がありますので、後から紹介いたします。
山門は桟瓦葺き切妻造りの薬医門となります。扉上の龍の彫刻が見事でした。
いつもはボランティアの案内がいるのでしょうか?わかりませんが、境内案内図が山門に置いてありましたので、これを参考に案内板1~4の順で紹介していきます。
山門入るとコンクリートの参道が本堂まで繋がっており、周囲は芝が敷き詰められ高低木の植栽で庭園を造っています。左手に案内板の1番目がありました。
案内板1には簡単な称念寺の由縁などが書かれていました。
「越前長崎称念寺
養老五年(721年)、泰澄大師が創建した阿弥陀堂が起源で、正応三年(1290年)に時宗に改宗。北陸随一の時宗の拠点として、また南朝の忠臣・新田義貞公の墓所として広く知れ渡り、厚い帰依を受けました。
明治維新の際、版籍奉還の影響で一挙に零落してしまいましたが、高尾察玄師が再興し、現在に至ります。
称念寺と明智光秀
斉藤義龍との戦いに敗れた明智光秀は、弘治二年(1556年)妻の煕子らとともに美濃からこの地に逃れてきました。それから十年間に渡って称念寺の近辺に住んでいた、という記録が残っています。
光秀は称念寺の門前に寺子屋を開いて学問を教えつつ、称念寺に往来する僧らと交流を持って、各地の情報や知識を得て教養を深めていた、と伝えられています。
夫婦の絆『黒髪伝説』
称念寺には光秀夫婦の絆の強さを示す物語が残っています。
称念寺住職が光秀のために、越前の戦国大名・朝倉家の家臣と連歌会の機会を設けました。当時牢人の身分であった光秀は資金が無く悩んでいたところ、妻の煕子が自らの艶やかな黒髪を売り、客人をもてなす準備を整えました。
その甲斐もあり連歌会は大成功。朝倉家へ士官する道が開けた光秀でしたが、煕子が自らの髪を売ったことを知ると、妻の献身に報いるため出世することを固く誓ったのでした。
称念寺に身を寄せた十年は、夫婦が同じ夢を見て、実現に向け邁進した、飛躍のため力を蓄えた期間なのです。」
案内板の横には、珍しい寄棟の手水舎がありましたが、水は出ていませんでした…
山門の左側には「鐘楼」がありました。
境内参道の左側には奥に庫裡(住職の住まい)がありました。
写真左側には「左近衛中将新田義貞公贈位碑」と刻まれた大きな石碑がありましたが、上の"近衛"部分がありません。どうやら1948年の福井地震で折れてしまったそうです。

参道を真ん中くらいまで来た所で、左にある「新田義貞公墓所」に先に行きます。
墓所の門横にありました案内板2には「新田義貞公と称念寺」について書かれています。
「称念寺は時宗の長崎道場と呼ばれ、正応3年(1290)時宗二代目真教上人を、当時の称念房がしたって建物を寄進しました。
南北朝の争乱の時代、新田義貞公は南朝方として戦いましたが、暦応元年(1338)に灯明寺畷の戦いで戦死しました。その遺骸は時宗の僧八人に担がれて、称念寺に手厚く葬られたことが太平記に記録されています。
室町将軍家は、長禄2年(1458)安堵状と寺領を寄進し、将軍家の祈祷所として栄えました。そして寛正6年(1465)に後花園天皇の綸旨(りんじ)を受け祈願所となりました。さらに後奈良天皇の頃には、住職が上人号を勅許されるなど、着々と寺格を高めていきました。
永禄5年(1562)には浪人中の明智光秀公が称念寺を訪ね、門前に寺子屋を建て生活しました。江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を『月さびよ 明智が妻の咄せむ』と詠んでいます。
徳川将軍家は新田氏が先祖にあたるということで、その菩提所を大切にしました。しかし明治の版籍奉還により、寺領が没収され、無檀家になり称念寺は無住になりました。新田義貞公や称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせて、大正13年(1924)にようやく再建しました。
ところが、昭和23年6月28日にこの地方を襲った福井大地震により、再び称念寺は壊滅的な打撃を受けました。檀家がないため、一時は存続すら危ぶまれましたが、多くの人々の協力により復興ができました。」
唐破風の門は最初の案内図に「中雀門」と書かれていました。
この門より中に新田義貞公のお墓がありました。
参道と門の間に大きな「 宝篋印塔」がありました。
「宝篋印塔」の裏辺りには案内板3があり、「明智光秀公と黒髪伝説・松尾芭蕉碑」について書かれています。
「明智光秀公は、弘治2(1556)年に斎藤義龍の大軍に敗れ、妻の煕子や家族と伴に、称念寺に逃れます。『明智軍記』と言う書物には、称念寺住職と和歌を詠み、漢詩を作ったことが記載されています。称念寺門前に寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。やがて、朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを、称念寺の住職が設定します。貧困の光秀には資金がない中、連歌の会は熈子の用意した酒肴で大成功に終わり、やがて光秀は朝倉の仕官がかないます。しかしその連歌の会の資金は、実は熈子が自慢の黒髪を売って、用立てたものでした。光秀はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったのです。
この「夫婦愛の物語」は、称念寺門前の伝承になり、江戸時代の松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中に、取材しました。その後、芭蕉は伊勢の山田又玄宅を訪れます。又玄(ゆうげん)は貧しい神官で、才能がありながら、出世できないことに悩んでいました。そこで芭蕉は弟子の又玄に、『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』の句を贈って励ましたのです。もちろん「明智の妻の話し」とは、称念寺の光秀夫婦愛を指します。意味は、「又玄よ、今は出世の芽がでてないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。今夜はゆっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう」とでも訳せましょう。芭蕉の師弟愛が、伺えます。
なおその光秀の夫婦愛を見ながら称念寺で、永禄6年に生まれたお玉(後の細川ガラシャ)も、両親に劣らぬ夫婦愛に生きた方でした。お玉の生き方が、天下分け目の関ヶ原の戦いに影響したといわれるぐらいですから、その夫婦愛は母の煕子譲りの筋金入りと言えましょう。」
左に松尾芭蕉の句"月さびよ 明智が妻の咄せむ"が書かれており、右は明智光秀と煕子の夫婦愛の物語が書かれています。
銅板葺き入母屋造りで向拝付きの「本堂」です。鉄筋コンクリート造なのでそんなに古くはないようです。御本尊は阿弥陀如来となります。
本堂の手前に案内板4がありますが、右には称念寺の文化財が書かれており、「他阿真教上人像」が国指定重要文化財となっていました。左は称念寺について書かれています。
「古くは長崎道場と呼ばれました。長禄三年(1459)に書かれた称念寺縁起(市指定文化財古文書)によると、養老五年(721)に泰澄大師創建とあり、白山信仰と深い関わりがあったようです。また、正応三年(1290)に時宗の道場となったとの記録があります。その後室町、安土桃山、江戸時代と時の権力者の保護を受けた称念寺には、称念寺所蔵勅書・綸旨(市指定文化財古文書)や、朝倉系図(市指定文化財古文書)など数多くの文書が残っています。」
本堂入口上には「忠誠殿」の文字が書かれた扁額が掲げられています。一度昼間に訪れたんですが、どなたもお見えにならなかったので、向拝にてお参りをさせていただきました。夕方仕事終わりにもう一度寄りましたら、住職がお見えになったので本堂内でお参りをさせていただきました<(_ _)>
最後に「本堂」北側にありました二重塔ですが、「忠霊塔」と案内図に書かれていました。
普通の塔であれば釈迦の舎利を納める所ですが、この塔には何が納められているのかはわかりませんでした。入口には「忠霊塔」と書かれた扁額が掲げられていました。
最後に「忠霊塔」前から見た本堂の横顔と本堂正面です。
御朱印は南無阿弥陀仏と書かれています。
場所:称念寺





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