2022
10/17
月
大津市の西国参詣、正法寺(岩間寺)からはおよそ6km北西の場所にあります、
『石山寺』(いしやまでら)に行きました(^^)/
小さな山、一山が境内敷地となっている石山寺は、町名も付いているなど広大で、伽藍の数も多く、
写真枚数もかなりの数になってしまったので、今回はかなり割愛しました。




ショッピングモール部を過ぎると「東大門」が見えてきました。
門前にも出店が続いています。
国の重要文化財に指定されています「東大門」です。本瓦葺き入母屋造り八脚門の仁王門となります。均整の取れた堂々とした形が美しさを醸し出しています。
「西国十三番石山寺」と刻まれた寺号碑で、西国三十三所観音霊場の第十三番礼所とわかります。書かれていませんが、山号は石光山で東寺真言宗の寺院になります。
「東大門は、三間一戸の八脚門、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面の左右に仁王像を安置しています。
現在の門は、建久元年(1190)の建築と言われていますが、慶長年間(1596~1615)に新築に等しい大規模な修理改造が加えられました。天井下の板蟇股や妻飾の懸魚などに慶長期の特徴がよく現れています。また、軒の組物に、隅を除いて尾垂木がないという特徴を見せています。
明治四〇年(1907)八月に国の重要文化財に指定されました。」
木像の仁王像は、鎌倉時代の仏師運慶・湛慶の作と伝わるそうです。細かい所まで精巧に彫られ風格のある仁王像でした。
仁王門をくぐると西に真っ直ぐな参道がうかがえます。
両脇には多くの塔頭が残っているようです。
「聖武天皇の勅願により天平勝宝元年良辨僧正によって開基され、歴朝の尊崇あつい由緒ある寺院である。西国巡礼十三番の札所。本堂は縣下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀君の修補になるもの。本尊観音は勅封になっている。
堂内源氏の間は紫式部が「源氏物語」を書いたところと傳え、本堂下の御堂は蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と傳える蓮如鹿の子の小袖を安置している。
多宝塔は美しい均斉美をもった鎌倉期の建築であり、鐘楼、大門は共に鎌倉初期の建立になるものである。
境内の奇岩はいわゆる石山の名の出た石で硅灰石からなり、天然記念物に指定されている。」
参道途中の右手に、大黒天を祀る「大黒天堂」がありました。きちんとした門があって独立した形となっていましたので、お堂ではなく一つの塔頭だったのかな? 石山寺のホームページでは「大黒天」と書かれているだけでした。
門柱には「宝印大黒天」と書かれた表札の横に、万寿元年(1024)約950年前に安置された旨が書かれていました。
入母屋造り向拝付きのお堂は、入口に大きな大黒天と書かれた提灯がぶら下がり、御本尊でもある大黒天像がお迎えしてくれました。
「大黒天堂」を越えて進むと、「志納所」がありましたので、入山料600円を払い境内に入ります。
朱色に塗られた手水舎にて身を清めたら、その奥に見える燈籠から北に上る石段を登ります。参道の正面にある祠は「那須与一地蔵堂」で那須与一が信仰した地蔵尊が祀られているようです。
石段の半ば辺りの左手に「龍蔵権現社」がありました。
石段を登り切ると、お堂が建ち並ぶ広い境内に出ました。
最初にありましたのは「観音堂」です。西国三十三所霊場で西国三十三所の全ての尊像を安置しています。
「観音堂」の左隣にあったのは、滋賀県指定有形文化財の「毘沙門堂」です。桟瓦葺き宝形造りで頂部の露盤宝珠が豪華な装いを醸し出しています。
「毘沙門堂は、堂内に兜跋毘沙門天(重要文化財)・吉祥天・善膩師童子の三体を祀っています。
この建物は、兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重です。
毘沙門堂は近世後期らしい華やかな建物で、実際は正方形の平面でありながら、間口三間に対して、
奥行き二間とし、方三間にはしない点や、須弥壇前の柱筋の中央間は組物上の通肘木を虹梁型に加工しその中央に笈形付きの大瓶束を載せ天井を受ける特殊な架構・意匠を用いるなど特色にあふれた優れた建築です。」
先程の説明にあった重要文化財の「兜跋毘沙門天」の説明がされていました。
「源頼朝の側近であった中原親能は、和束で起こった反乱の討伐に向かうにあたって石山寺に詣で、観音さまに勝利を祈願しました。石山寺の門を出発した時、親能の前に毘沙門天が現れ、無事反乱を鎮めることができたと「石山寺縁起絵巻」は伝えています。
武神であり、財宝神である毘沙門天は観音さまの三十三応現身(観音さまが人々を救済するために時と場所と相手に応じて変身した三十三の姿)のひとりでもあります。この毘沙門堂に安置されるのは、兜跋毘沙門天立像(重文、平安時代後期)です。」
堂内中央に安置されていました、中央が兜跋毘沙門天(重要文化財)、右に吉祥天女、左に善膩師童子の三体です。
今回最後となるのは「観音堂」の向かいにありました、国の重要文化財となっています「蓮如堂」です。下に廻って写真を撮らなかったので申し訳ありませんが、丁度看板の向こう側が崖に立つような「懸造り」となっているのがうかがえます。
「蓮如堂は、寺蔵文書から淀殿による慶長期の境内復興の際に、三十八所権現社本殿(県指定)の拝殿として建築された建物です。
明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれています。
建物は、寺蔵文書や東妻破風板の墨書などから慶長七年の建築で、その後、文化八年(1811)に桟瓦葺に改造されています。
この建物は、文書から神事のほか、仏事にも使用されていた非常にまれな建物です。
懸造で妻入りとし、入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、さらに鎮守側の北側一間通りを広縁とする礼拝空間を構成するなど、独特の平面構成を持つ建築として、寺院における鎮守拝殿の一類型として、建築史上からも極めて貴重な建築です。」
今回はここまでです。次回は本堂からお伝えします。
西国三十三所御詠歌の御朱印
場所:石山寺





この記事と関連する記事
AFTER「[滋賀県] 西国三十三所観音霊場の石山寺② 御影堂~光堂」
BEFORE「[滋賀県] 西国三十三所観音霊場の正法寺(岩間寺)③ 不動堂他」
COMMENT