2022
09/12
月
『南法華寺(壺阪寺)』(みなみほっけじ(つぼさかでら))の3回目になります(^^)/
前回では「禮堂」までを紹介しましたが、今回は壺阪霊験記にあります「投身の谷」の上に「お里澤市の像」からとなります。ちょうど「禮堂」の東側にその場所がありました。像の後には壺阪霊験記が書かれた休憩所もありました。
「『壺坂霊験記』は明治時代初期に作られた浄瑠璃の演目で、歌舞伎や講談、浪曲としても演じられている。沢市という盲人とその妻のお里の夫婦愛を描いた物語。浪曲だと「妻は夫を労りつ、夫は妻を慕いつつ」という名調子が有名である。講談では連続物で演じられるほか、全編をまとめ沢市の目が見えるようになるまでの部分を一席にしたものが良く演じられる。」
休憩所の裏側には像高3mの「めがね供養観音」がありました。
「壺阪観音は眼の観音さまとして古くから信仰があり、そのご縁で眼に関係する物の奉納供養の相談は色々とあります。
その中で、眼の弱い人の生活を補ってきた「めがね」のご供養の相談もありました。
古くなった「めがね」は、産業廃棄物として処分されますが、余りにも忍びがたく、日夜人の役に立ってきた「めがね」に感謝し、その功徳により眼の健康にご加護頂くため、インドで観音像を製作して頂き、壺阪の山に招来しました。
また、製作では、観音さまのお姿を美しく見て頂くため、石を分割し、それぞれ彫刻し、その後、当寺で組み立てられました。
古いめがねやコンタクトレンズは台座に奉納供養されます。」
「三重塔」前にあります壁面レリーフは「天竺渡来佛伝図レリーフ"釈迦一代記"」です。
屋根中央に露盤宝珠を持つ宝形造りの「中興堂」です。
「明治初期の廃仏毀釈の法難に遭い、廃寺になりかけた壺阪寺を復興した諸大徳。第二次世界大戦後の混乱時期において、伽藍復興・社会事業にも尽力した諸大徳を祀る。特に、中興五世勝憲和尚遷化の際、和尚の遺した業績を語り継ぐため、建立された。」
中央の須弥壇には諸大徳が祀られていました。
続いては、「天竺門」の扁額がある朱い門をくぐり、山の道路脇の参道坂を上に登ります。
坂の途中から見える眺望です。右上に「禮堂と八角円堂」、「大釈迦如来石像」、中央には「多宝塔」が見えます。2枚目では左上に飛鳥の街がうかがえました。
雨も降り続いていたので、ちょっと暗いですが、「大観音石像」が鎮座する場所に来ました。観音像の場所までは更に登ります。
「大観音石像」の前には「大観音石像の御手」がありました。大観音さまの御手に触れることはできないので、温もりに触れて頂こうと、この御手だけが奉納されたようです。
方角的に「飛鳥」や「高取」の街が見えていると思います。
全高20mの「天竺渡来大観音石像」です。
「天竺渡来大観音石像は、インドハンセン病救済事業のご縁でインドからご招来したものである。
インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石がインド政府より提供され七万人のインドノ石工が参加してすべて手造りで制作された。二十メートルの巨岩は動かすことも運ぶことも不可能なので六十六個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組立てられた。全重量千二百トンである。
この巨岩を支える土台は深く基礎岩盤にまで掘り下げられ、数万巻の写経と土台石が埋納されている。また、胎内には数万巻の写経と胎内石が納められ、六十六個の石が一本の巨石となっている。
この大観音石像はインドの文化勲章受章者シェノイ氏及びその一門によって制作されたもので昭和五十八年三月十二日開眼法要が営まれた。」
下から見上げると、かなり大きく感じられます。
今回はここまでです。次回は残りの堂宇などを紹介して最後となります。
御朱印は西国三十三所の御詠歌
場所:壺阪寺





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