2022
07/09
土
前々回から紹介しています、今回が3回目の『浅草寺』(せんそうじ)です(^^)/
前回までに「本堂」~「五重塔」までを見てきましたが、今回は「西境内」です。
この西境内案内図の下が「本堂」です。一番下にある矢印
の所から順番に廻りましたので、そのままをお送りいたします。

西境内最初は、東側にありました「銅像阿弥陀如来坐像」と「銅像宝篋印塔」です。
続いて、西境内の南側に廻り、通路の右手にありましたのは、「恵日須・大黒天堂」と、その左隣にある小さな祠が「めぐみ地蔵」です。その奥には「銭塚弁財天」になります。
通路の左手には、左から順に「子育地蔵尊」「商徳地蔵尊」「出世地蔵尊」です。
通路を横切る川に架かる橋を越えたところにあったのは、手前から「九頭龍権現」「金龍権現」になります。
東京都指定旧跡の「六地蔵石燈籠」は六角形の建物の中に保管されていました。
続いては通路をちょっと戻り、西に行く通路にありました「銅像観音菩薩坐像」と「一言不動尊」です。
この通路の一番奥(西境内の西端)にあったのは「橋本薬師堂」です。
「当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。慶安二年(1649)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀にかかる橋のかたわらにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成六年、現在の場所に移転した。
現在の建物は、桁行三間(約5.35メートル)、梁間三間(約5.10メートル)、屋根は入母屋造、瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。」と書かれていました。
続いて「西境内」の更に西側奥にあったのは「淡島堂」です。
「淡島堂」の左側には「写経供養塔」があります。奥の「五重塔」の小型版のようで、上の造りがそっくりです。
桟瓦葺き入母屋造り向拝付きの「淡島堂」は全体が朱に塗られ装飾も施されています。
入口上には「淡嶋堂」が額が掲げられています。
「淡島堂は、元禄年間(1688-1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年二月八日、ここで針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。」と、書かれていました。
「西境内」に戻り、先程の「橋本薬師堂」の北側に「三峰神社」があります。その通路北側に「日限地蔵尊」が祀られる「六角堂」がありました。
「六角堂」の右隣にあり、西境内最後で最大の「影向堂」(ようごうどう)になります。錣葺き寄棟造りで勇壮な形のお堂です。
「影向堂はもと本堂南東にあったものを、平成六年に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕千二百年を記念して、現在地に再建されたもので、観音さまのお説法やご活躍に不断に讃嘆協力されている仏さま方「影向衆」をおまつりしているお堂である。
堂内には、中央に聖観世音菩薩さま、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊さま八体がおまつりされている。
お堂の上、棟飾りには、火伏せの咒い(まじない)とされる金箔押しの鴟尾を置く。鴟尾を取り付ける際は不思議と雨を呼ぶといわれており、平成六年夏の建立時も記録的な日照りであったが、鴟尾を取り付けると突如として雨が降り、人々を感動させた。」とあります。
「影向堂」の額がある入口より中に入りお参りをさせていただきました<(_ _)>
外陣の左手には、今回の御朱印に書かれている「浅草名所七福神」の一尊である「大黒天」が祀られていました。
「このお像は、「浅草名所七福神」の一尊として信仰される大黒天である。別名、「米櫃大黒」とも言われる。大黒天とは「大黒天神」とも呼ばれ、元々はインドの神であった。やがて仏教に取り入れられ、日本では袋を背負い俵に乗る柔和な姿に表わされ、商売繁昌や福徳の神としてお祀りされる。大黒天の縁日は「子」の日であり、この日にお参りされるご信徒も多い。」
大黒天の御朱印
場所:浅草寺(影向堂)





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