2022
07/04
月
前回に引き続き『浅草寺』(せんそうじ)です(^^)/
「本堂」のお参りを済ませ、東西から本堂全景をパシャリ

「宝蔵門」の西側に「五重塔」はありますので、ちょっと戻ります。
写真は「本堂」の西側全景(1枚目の写真
)を撮ったときに後ろにあった「五重塔」です。


ちょっと「宝蔵門」西側まで戻り「五重塔」を見上げます。
「五重塔」の手前には専用の拝殿(立入禁止)が付いており、下からの「五重塔」全景を見ることはできません。(-_-)
「そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。
浅草寺五重塔は、天慶五年(942)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和二十年三月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)
以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和四十八年に現在の五重塔を再建するに至った。
地上からの高さは約五十三メートルある。」
「五重塔」拝殿前から見た「宝蔵門」です。通常は門周りには塀があって、境内の内外を隔てるように造られていると思うのですが、大きな観光地となっている現状では門だけが独立してモニュメントのようにしか見えません…
更に戻りまして、「宝蔵門」の東側にありました「二尊仏」です。
「「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観音(右)、勢至(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に二・三六メートル、蓮台を含めれば四・五四メートルにおよふ。基壇の組石は、長さ約十二メートル、幅六・二一メートル、高さ一・五メートルとなっている。
蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享四年(1687)八月に造立した。
江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町の太田久衛門正儀 の作。
安永六年(1777)二月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。」 と、書かれていました。
「二尊仏」から更に東に行った所にも堂宇がありました。
まず手前にあったのは「時の鐘」と書かれた「鐘楼」です。
「江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。
鐘の大きさは、高さ二・一二メートル、直径一・五二メートル。
鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄五年(1692)八月、五代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金二百両を寄進した。
この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」 は、あまりにも著名である。
昭和二十年三月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和二十五年五月再建されたものである。」
「時の鐘」の奥にあったのは、本瓦葺き宝形造りの「弁天堂」です。
「弁天山と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和五十八年に再建されたもの。
ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。
境内の鐘楼の鐘は、元禄五年(1692)五代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か浅草か』で有名。現在は、毎朝六時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。
弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。」
中は見ることが出来ませんでしたが、「弁天堂」の扁額がある向拝でお参りをしました。
「弁天堂」は「弁天山児童公園」と山名が付いている小高い場所にあったので、「宝蔵門」と「五重塔」が良く見えました。
続いては「本堂」の西側にある「影向堂」周囲に堂宇がたくさんあるんですが、ここは次回まとめて紹介しますので、その北東にありました「銭塚地蔵堂」を今回最後に紹介します。
銅板葺き六角形の形で二層屋根の「銭塚地蔵堂」です。
「銭塚地蔵堂は、家内安全・商売繁昌の御利益がある本尊・六地蔵尊をお祀りしているお堂である。その歴史を紐解くと、江戸時代、摂州有馬郡に山口某なる者がいた。ある日、その妻が庭先で寛永通宝がたくさん入った壺を掘り当てた。しかし、これに頼っては家が滅びると考え、人知れず土中に埋め戻した。この心掛けによって一家は繁栄したので、その壺の上に地蔵尊を祀ったとされる。以上の縁起から「鎧塚」の名がつけられた。
戦後、昭和二十九年(1954)に再建されたが、老朽化にともない令和元年(2019)にお堂を新築した。
参拝者は塩と線香、灯明用の蝋燭を頒けてもらい、本尊へお供えする。また、毎月「四の日」と正・五・九の各月二十四日には法要が営まれる。」
「銭塚地蔵尊」の額がある向拝にて、お参りをさせていただきました<(_ _)>
外には「カンカン地蔵尊」と書かれたお堂もありました。
石像が安置されていますが、何なのかわからない姿で、石で打って祈ると「カンカン」という金属音がすることが「カンカン地蔵」の由来らしいです。
境内からは東京スカイツリーもよく見えました(^^)/
今回は御朱印はございません…
場所:浅草寺(五重塔)





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