2022
05/15
日
下呂温泉合掌村にありました「かえる神社」の参拝後、合掌村を出て
駐車場まで戻ってきました。続いてはそこから北にある『温泉寺』(おんせんじ)を目指します(^^)/

下呂温泉はアップダウンが激しい場所で、今度は湯の街通りを上に登って行きます。少し登ると道中に黒塗りの鳥居が出てきました。鳥居には「飛騨街道 湯之島宿」の札が掛かっており、どうやら湯之島宿の入口のようです。
街道沿いには「湯の街通り」と書かれた木製の常夜灯を設置、その隣には道標が置かれ街の観光の一助になっています。
「飛騨街道と南北街道の分岐点
ここは江戸時代、飛騨街道(益田街道)と南北街道との分岐点だった所です。飛騨街道を北に向かうと高山、古川から越中富山に至り、飛騨街道を南に向かうと金山、関へ、あるいは中山道の太田宿に至ります。
また、ここが南北街道の起点で、中山道中津川宿まで結んでいました。」とありました。
旧飛騨街道の宿場町として栄えた湯之島宿の雰囲気を取り戻そうと、下呂温泉が中心となり、当時の問屋場であった場所に復元された「高札場」です。
コロナ禍でまだ客足は少ないですが、街道は若者が溢れる活気ある街となっていました。
左の「湯島庵」さんは、飛騨牛にぎりが滅茶苦茶美味しかったです(^^)/
湯の街通りを中程まで行った所で、大きい交差点を右に曲がると遠くに「温泉寺」の看板が見えました。下呂温泉でも有名な温泉宿の「湯之島館」も山の上の方にあるようです。
石段の先に境内があります。結構長い石段を上がらなければいけません…(-_-)
入口前には小さな祠(子守り地蔵尊)と「湯薬師霊山 温泉寺」と刻まれた寺号碑があります。
入口には「飛騨屋久兵衛の墓」と書かれた説明板があります。武川家の四代久兵衛は飛騨屋を開店し、木材業を始め、最盛期には日本の三大富豪の一人に数えられました。温泉寺は武川家の菩提寺となっているようです。
石段の真ん中には手摺が設けられ、両側は温泉寺の管理する墓地のようです。
石段の先にありました山門に到着です。扁額には「薬師霊山」と書かれているのかな?(^^;)
山門下には可愛らしい感じで描かれた境内図がありました。
山門前に立って順に、境内の右側→正面→左側です。
右側には本堂や観音堂(Google Mapでは普明堂)、正面唐破風の屋根がある所は玄関と思いますが、今は七福神の寿老人が祀られる場所で、左側は寺務所関係となるようです。
ボクは「赤と黒」と言うドラマは知りませんでしたが、日韓共同制作でBSフジで放送されたようです。奥の寺務所は書院壇信徒通用口の入口があり、臨済宗妙心寺派の岐阜東教区宗務所の看板も掛かっていました。
山門横に温泉寺の縁起が載っていました。
「下呂温泉は昔、東の方湯ヶ峰の山頂近くに湧いていました。温泉は、万病を治し、下呂の人々はもとより、多くの遠方の人々にも親しまれておりました。ところが文永2年(1265年)温泉の湧出が突然止まってしまい、人々は大変嘆きました。
そして、翌年のこと。毎日益田川の河原に舞い下る一羽の白鷺がいることに村人が気づきました。不思議に思って、その場所に行ってみると、そこには温泉が湧いています。白鷺は、村人にその地を教えると空高く舞い上がり、中根山の中腹の松にとまりました。村人がその松の下に行ってみると、光輝く薬師如来が鎮座していたそうです。白鷺は、薬師如来の化身で、村人達に再び温泉を授けたと言い伝えられています。
温泉寺には、この薬師如来がまつられており、下呂の街と温泉を見守っています。」
正面玄関の右手にありました岩をくり抜いた形の手水鉢がある場所で身を清めました。
正面の玄関は大きな行事でもない限り、今は使われていないんでしょうねぇ。ここから入り、連絡通路を右に行くと本堂があり、左が庫裡や書院へ行けると思います。
唐破風の屋根は見た感じ本瓦葺きみたいです。棟の鬼瓦も豪華です。
温泉寺は下呂温泉周遊七福神めぐりの一つ「寿老人」を祀っており、健康長寿と家庭円満をお祈りして参りました<(_ _)>
今回はここまでです。次回は境内右側の本堂側へ参ります、乞うご期待(^^)/
寿老人の御朱印です。
場所:温泉寺





この記事と関連する記事
AFTER「[岐阜県] 下呂市湯之島に開基 温泉寺」
BEFORE「[岐阜県] 下呂温泉合掌村に鎮座 かえる神社」
COMMENT