2022
03/16
水
今回は『安土城跡』(あづちじょうあと)の続きを紹介します。摠見寺と重複する部分もありますがご容赦ください(^^)/
まずは織田信長本廟の脇にあった「護国駄都塔」と書かれた石碑、説明がないので全くわからないんですが、塔と書かれていることからここに塔があったのかな?
続いて「本丸跡」です。多分城址の中では一番広い場所かと思います。
「天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南北に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34mx南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。4~6寸(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。
礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。
なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。」
本丸の礎石があちこちに点在しています。
2枚目は「天主台跡」から見下ろした「本丸跡」になります。
「天主台跡」です。ここに他に類のない大天主があったと思うと感慨深いです。
「安土城天主台跡」の説明板には、下のように書かれていました。
「安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正一〇年(1582)六月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和一五年(1940)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。
安土城天主は、記録から地上六階・地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。」
下の木が邪魔ですが、大天主の上からならもっと雄大な眺望がうかがえたんでしょうね!
「織田信長本廟」が天主台から見下ろせます。
先程の説明にありましたが、「天主台跡」にある礎石は当時のままらしいので、見る価値は十分にありますね~。
二の丸跡近くにありました、「織田信雄公四代供養塔」です。
ここから帰路は右の矢印となっていました。摠見寺本堂跡や三重塔・二王門などがあります。登りは左側の大手道から来ています。
しばらく山道を歩くと、「摠見寺本堂跡」(右手側)と「三重塔」がありました。詳細は前回の「摠見寺」のブログでご確認下さい(^^)/
国の重要文化財である「三重塔」は凜々しい形をしています。
急な下り坂の最後にあったのは「二王門」です。こちらも詳細は前回の「摠見寺」ブログでお願いします。
どう通ったか覚えていませんが、結構ぐるっと廻って最初に見ました「伝羽柴秀吉邸跡」に戻ってきました(^^)/
この安土山のてっぺんのどこかに「大天主」が建ってたんですよね~
御城印は前回見せた摠見寺御朱印帳の最初に書かれているものです。
御朱印帳購入特典ですね~
場所:安土城跡





この記事と関連する記事
AFTER「[滋賀県] 近江八幡市安土町に鎮座 沙沙貴神社」
BEFORE「[滋賀県] 安土城郭内にある織田信長菩提寺 摠見寺」
COMMENT