2022
01/20
木
水尾神社に続いては、男山中腹にあります
『千姫天満宮』(せんひめてんまんぐう)です。(^^)/
下の
写真は水尾神社入口より駐車スペースを挟んだ西側にありました石鳥居です。

古そうな石鳥居の柱内側には「八幡宮」と刻まれておりますが、この男山には中腹にある「千姫天満宮」と、その更に上にあります「男山八幡宮」が鎮座しており、その八幡宮の名が刻まれていました。
姫路城主松平直矩が寄進した「石鳥居」の説明板がありました。
「延宝七年(1679)のもの。八幡宮は軍(いくさ)の神、代々の城主はこの神を信仰し、なかには社殿を修理した城主もあった。松平直矩も、この鳥居を建て武運長久を祈ったのだろう。三年後、直矩は九州の日田へ移って行った。」
参道には石段上にある「男山八幡宮」と「千姫天満宮」の案内看板があります。
前回お伝えした「水尾神社」の崇敬会館(社務所)は「男山八幡宮」と「千姫天満宮」も兼ねているようです。
石段手前には「男山八幡宮参道」の石碑がありましたが、千姫天満宮のものは見当たりません(^^;)
石段の途中に「幸運の蛙」と書かれた石像がありました。
「かえるは、縁起のよい動物と言われています。
三福かえる 宝かえる(金運招福)、無事かえる(交通安全)、若かえる(健康長寿)
などと、人々に親しまれています。」と書かれていました。
更に少し上がると「千姫天満宮」の入口に着きました。
入口には参拝記念として、尾張徳川家第二十一代徳川義宣の銘が刻まれた石碑がありました。
Wikipediaで調べましたら、どうやらまだ最近までご存命だった方のようです。因みにタイトルにも書きましたが、千姫は徳川家康の孫娘の一人で、最も有名だと思います。
入口の石鳥居は明神鳥居となっています。
鳥居には「千姫天満宮」と書かれた石製の扁額が付いています。
鳥居をくぐったすぐ右手に簡素な手水鉢がありました。吐水口は龍口となっています。
絵馬掛けですが、絵馬は羽子板の形でした。表に千姫が描かれ、御祭神は学問の神様である菅原道真となりますので、合格祈願を書かれている人が多かったです。
境内参道の左手には、天満宮にはつきものの「撫で牛」がありましたので、もちろん頭を撫でてきました。(^^)/ 牛の背中と台座にある家紋ですが、牛の背中はもちろん天満宮と言えば梅紋です。下のは徳川葵紋ですが、先にあった徳川義宣が参拝されているので、その奉納者なのかな~?
銅板葺き入母屋造りで、唐破風の向拝付き社殿(拝殿)です。後から竣工祈念碑が出てきますが、そこに書かれていましたが、平成十四年に造られたようです。御祭神は前述の通り菅原道真になります。
向拝にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
社殿の横にあった「千姫天満宮新社殿竣成記念碑」には、
「元和九年三月、千姫は戦国の世に生まれながら、生涯で最も幸せであった姫路の地に、自ら発心建立したのが、この天満宮の旧社殿である。幾世を経て全国梅風会「管公壱千百年大祭」の奉祝記念事業の一環として社領の拡幅と新社殿の建設奉賛会を結成した處、氏子内外より神恩報謝の赤誠の洵が寄せられ茲に美麗にして堅固に竣工し無事御遷座成るを奉祝す。」
と、書かれていました。
由緒は頭の数行しか書かれていなかったので、
こちら→「人文研究見聞録」様のブログ記事から参考とさせていただきました。
「千姫は徳川秀忠とお江の子として生まれ 豊臣秀頼と結婚して正室となった人物で、天神(菅原道真)を信仰していたそうです。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で秀吉が自害すると千姫は寡婦となりますが、翌年の元和2年(1616年)に本多忠刻と再婚し、元和3年(1617年)に忠刻が姫路に移封されると、千姫は本多家の繁栄を願って元和9年(1623年)に男山に天満宮を創建して それまで守護神として城内で祀っていた天神木像を ここに遷したとされます。
また、木像の他に金泥法法華経・観音経・唐鏡・袖手見・羽子板・虎の爪・茶碗・帯なども奉納したとされ、現在当社では千姫が奉納したとされる羽子板にあやかって羽子板型の絵馬も行われています。なお、この絵馬は切手を貼れば郵便物として送ることもでき、学業成就や恋愛成就の御利益もあるといわれているそうです。」
絵馬の形が羽子板の謎がこの説明で解けました(^^)/
本殿は見た感じ流造りかな~と思います。
御朱印は桃色地に社名が書かれています。ここにも2つの神紋が使われていました。
場所:千姫天満宮





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