2022
01/05
水
前回の続きで、国宝『姫路城』(ひめじじょう)を報告致します。前回は天守閣に入る手前の「水五門」までを見ましたので、いよいよ今回は天守閣となります。(^^)/
「水五門」をくぐるとすぐに「水六門」があります。
「西小天守」の地階に設けられた城門になります。
正面が「ハの渡櫓」で国宝です。右手の明るい部分が天守群に囲まれた内庭になります。
ここから内部に入りますので靴をビニール袋に入れて素足もしくは靴下で入ります。冬はかなり寒いので携帯用のスリッパ持参がいいかもです。(^^;)
天守内部には内部には模型や展示品などがあるようです。
「乾小天守」内から見えた「二の櫓」屋根です。
各階をざっくばらんに
撮っていますので、しばらく内部の状況をご覧下さい(^^)/

2枚目は天守閣の軸組構造模型です。
ここが天守閣の最上階です。真ん中には祭壇もあります。
外には出られませんので、格子窓の隙間から眺望を
撮っています。かなり難しかったので、ぼやけが入ったりしていますがご容赦下さい<(_ _)>

北→東→南→西の順で
撮りました(^^)/

3枚目のしゃちほこは千鳥破風の先端にあったものです。
4枚目
写真の右手の山は「姫路市配水池公園(男山)」ですが、ここにある神社にも行って展望スポットから「姫路城」を
撮影していますので、後日ブログに上げさせていただきま~す(^^)/


天守閣から内部に入った「水五門」まで降りてきました。見える広場は「備前丸」です。
「ここは備前丸という曲輪で、「御前丸」と呼ばれていた時期もありました。もともと池田輝政の御殿がありましたが、本多忠政が城主になると、御殿は三の丸に移されたといわれます。敷地面積が狭いため、曲輪内には建物が密集していたとみられ、昭和の大修理では天守台石垣のすぐ下で排水溝や建物の遺構が発掘されています。
御殿が三の丸への移った後も、南側の石垣上には二重櫓と長局、御対面所などが建ち並び、曲輪内には御台所と折廻櫓がありました。御台所や長局などは明治15年(1882)に失火で焼失し、備前門の一部と折廻櫓だけが昔の姿をとどめています。」 とありました。
備前丸からの「天守閣」全景になります。
天守右にあります「備前門」です。順路はこちらですので進みます。
「ちの門」です。
通路奥に見えるのが「太鼓櫓」になります。左手の建物はわかりませんでした。
太鼓櫓付きにあった「りの門」をくぐります
りの門をくぐって出た広場に、怪談で有名な「お菊井戸」がありました。
「この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。
永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職の執権青山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚、…9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。」
「お菊井戸」から見た天守閣です。天守の下にある「備前丸」を囲った石垣が高いので天守閣も上の方しか見えていません。
お菊井戸から左側には、右側に「ぬの門」があり左側は「りの一渡櫓」です。
「りの一渡櫓」の中は、展示室になっていました。
大天守のしゃちほこが時代によって形が違うんですね~(^^)/
城内で唯一の三層の櫓門である「ぬの門」をくぐると、「扇の勾配」と呼ばれる石垣積みの場所がありました。石垣の角度を、扇の開いた形に湾曲させ、反りをつけることによって高い石垣を積む事が出来るようです。
「をの門跡」がありました。今までにたくさんの門を見ましたが、さすがの多さでした(-_-)
「二の丸」がある場所まで戻ってきました。
真ん中に見えるのが3番目に入った「ろの門」です。
「二の丸」から見た「天守閣」になります。
今回はここまでです。次回は「西の丸」から「百間廊下」を見て、姫路城外にある「好古園」までをお伝えしますので乞うご期待(^^)/
御城印は出口で買うことが出来ます。
場所:姫路城





この記事と関連する記事
AFTER「[兵庫県] 国宝 姫路城 ③ 西の丸~好古園」
BEFORE「[兵庫県] 国宝 姫路城 ① 大手門~天守閣入口」
COMMENT