2021
12/31
金
今回より、国宝『姫路城』(ひめじじょう)を報告致します。あまりに大きく広く、見所満載だったので、数回に分けてお送り致します(^^)/
まずは前日の兵庫懸姫路護國神社の帰りに
撮りました「姫路城」の遠景です。夕方ならそんなに人もいないだろうと思って撮りましたが、案の定次の日の朝は人がいっぱいであまりいい
写真が撮れませんでしたので良かったです(^_^)v


ここからは当日の
写真となります。

まずは城内への入り口前にありました「姫路城大手門と桜門橋」の説明板です。
「姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高くかつ厳重な門でした。現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13(1938)年に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。また、大手門前の内堀には桜門橋という木造橋が架けられていました。今回復元した桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして平成19(2007)年に築いたものです。」
と、あります。
上記の説明板にありました、「桜門橋」と「大手門」です。
門をくぐり中に入ると、「世界遺産 姫路城」と刻まれた巨大な石碑が目にとまります。日本最初に登録(その他3件あり)されただけあって石碑も巨大です。
遠くにある天守の手前にある高大な広場は「三の丸」になります。
「姫路城三の丸」の説明板には、
「桜門橋を渡り、大手門を通ると目の前には、三の丸広場が広がり、その正面に大天守が飛び込んでくる。現在の姫路城の姿である。
江戸時代、城の大手は二重枡形門という特に厳重な構造であった。内堀に架かる木製太鼓橋を渡ると、高麗門の桜門があり、その奥、現在の大手門がある場所には、桐二門が西向きに設けられ、さらにその北には、向きを反転し東を正面とする櫓門の桐一門という、3つの門からなっていた。
この桐一門を通れば、三の丸広場のほぼ中央に幅約21mの大手道が大天守方向に向かっていた。道の南西には、武蔵野御殿、さらにその西の高台には、御本城(御居城ともいう)と呼ばれる御殿があった。総面積約4,000㎡にも及ぶ殿舎は、元和3年(1617)に入封した本多氏が整備したとされ、藩政の中心をなしていた。道の東側には、向屋敷があり、藩主の娯楽や接客のため、数寄屋、築山、泉水などの広大な庭園を備えた御殿であった。
明治時代以降、これらの御殿や櫓、門などはことごとく撤去され、陸軍の施設が整備された。一方で、失われた建物を復興しようとする計画も進められ、昭和13年(1938)には、今の巨大な大手門が新たに整備された。
改めて今の地面を見てみよう。三の丸広場の中央や、周囲の通路の表面にグレーの細い石がはめ込まれ、線が示されている。これらは、今は失われた江戸時代の門や道の姿をイメージできるよう、発掘調査や文献史料を基にそれぞれの位置に遺構表示したものである。」


入口(券売所)の手前に「姫路城の歴史」が書かれていました。
「姫路は、古代には播磨国府が置かれ、中世には府中として守護の拠点となりました。姫路城は府中に築かれた城で、築城は14世紀まで遡るという説もありますが、やはり16世紀中頃に黒田重隆・職隆父子が、御着城の端城として築いたとみるべきでしょう。
天正8年(1580)、羽柴秀吉は播磨国を平定すると、織田信長の命令により姫路城を築きます。このとき、三重天守をもつ石垣造りの城郭となりました。城の周囲には家臣が集住し、商人を移住させて城下町も整備されました。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の戦功で播磨国を与えられた池田輝政は、城を大改修します。羽柴時代の縄張りを踏襲しつつ、五重天守や高石垣を築き、規模も大きくしました。また、輝政は徳川家康の娘督姫を妻としたことから、2人の間に生まれた男子は大名に取り立てられて淡路国や備前国が与えられ、池田一族の領地は約100万石にもなりました。その本拠が姫路城で、西国の豊臣恩顧の大名をけん制し、豊臣秀頼の大坂城を西側から包囲する役割も期待されました。
姫路城が完成するのは、池田氏のあと城主となった本多忠政の時代です。元和4年(1618)には西の丸を増築し、三の丸の御殿も整備しました。池田時代には頓挫した飾磨津と城下を結ぶ運河(三左衛門堀)計画が、船場川を改修することで実現できたのもこの時期です。その後、城主は松平氏、榊原氏など親藩や譜代の大名が歴任し、酒井氏のとき廃藩置県となりました。
明治7年(1874)、旧城内には陸軍歩兵第十連隊が駐屯し、明治29年(1896)には第十師団が置かれることになりました。姫路は城下町から軍隊の町へと変わり、第二次世界大戦中は2度の空襲を受けました。城内にも焼夷弾が投下されましたが、城の建物に大きな被害はありませんでした。
昭和6年(1931)1月、大天守、西小天守、乾小天守、東小天守とこれを結ぶ渡櫓が国宝に指定され、昭和31年(1956)、中濠以内107haが特別史跡に指定されました。平成5年(1993)12月には、日本で初の世界文化遺産に登録されました。」
入り口前からの大天守。ちょっと角度が違うだけで見え方もかなり変わってきます。
入口券売所 姫路城と姫路城の西にある御屋敷跡庭園である「好古園」の共通券が大人1,050円ですので、姫路城単独が1,000円だったので、共通券にしました。今回「好古園」も含めて報告します。
券売所を通って最初にあります「菱の門」ですが、改修中のようでここだけ足場が架けられて見えませんでした。。。残念(-_-)
門をくぐってすぐに「国宝・重要文化財一覧」がありました。国宝だけが赤いマークで表示されています。その他は重要文化財のようですが、、、ほとんどやん!!!
「大天守、西小天守、乾小天守、東小天守、イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、ニの渡櫓」が国宝のようです。できる限り国宝を見てみたいです(^^)/
明治初期の鳥瞰図が看板として書かれていましたが、あらためてすごいお城だなぁってわかります。
「いの門」の手前から見える「大天守」です。
「いの門」です。
ここから「大天守」に行くまでにたくさんの門をくぐりますが、門の名前だけ記します。
「いの門」から「ろの門」へ行く途中に見える「大天守」です。
手前の広場は「二の丸跡」になります。
「ろの門」です。2枚目は「ろの門」から「はの門」へ行く間に見えた「大天守」です。
「はの門南方土塀」と看板にありました。土塀先には「はの門」があります。
「はの門」から「にの門」へ通じる通路正面に見える「大天守」です。
2枚目は「にの門」です。
「にの門」をくぐり、通路正面に見える「ほの門」までに見えた「大天守」です。
「ほの門」です。
「ほの門」からほど近い「乾小天守」の天守台石垣がある場所にあった「姥ヶ石」(うばがいし)と書かれたプレートに、
「石垣の上方に欠けた石臼が間詰め石として積まれています。これを「姥が石」と呼んでいます。
羽柴秀吉が姫路城を築くとき石集めに苦労していました。城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんがそのことを聞き、使っていた石臼を寄付しました。秀吉は喜んで石臼を石垣に使いました。この評判はすぐに広まり、国中からたくさんの石が寄付され、築城工事は急速に進み、立派に完成したというのです。
「姥ヶ石」が積まれている石垣は、池田輝政が築いたものなので、この話は伝説です。
そのほかに、「姥ヶ石」には、お婆さん(姥)は妊娠しない(孕まない)ことにかけて、石垣も孕まないようにとのお呪いで積まれたという説もあります。」
と、書かれていました。赤丸の所に石臼がはめ込まれています。半分に割れた石臼なのかな?(^^;)
左側の入母屋の屋根の方が「イの渡櫓」で、右の切妻が「ロの渡櫓」になります。どちらも入口看板で先に確認した国宝になります。立ち入りはできないようでしたが…
ここからは順番に「水二門」、「水三門」、「水四門」です。
「水五門」です。この上が国宝の「二の渡櫓」になります。
この門をくぐらないと天守には行けないようで、この辺からいよいよ天守閣内部に入っていきます。
今回はここまでです。ここまできてわかりますが、いろいろな場所から各面の違った「大天守」が伺えます。そうやって考えて造られているのか、見に来た方としては嬉しい限りですね~(^^)/
御城印は次回ご紹介します。もったいぶってすいません(^^;)
場所:姫路城





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