2021
12/16
木
前回よりの続きで『圓教寺』(えんぎょうじ)の4回目は最後の報告になります。(^^)/
奥之院でのお参り後は、更に道沿いに南へ進みます。
高木を抜けた所で最初にありましたのは「金剛堂」です。
本瓦葺き入母屋造りの金剛堂は現在国の重要文化財に指定されております。
「三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩埵にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられるが、明治四十年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩埵像は、現在、食堂に安置されている。」
金剛堂から更に南に行くと瀬戸内海が展望できる公園がありました。
意外と高木が邪魔でしっかり見えませんでしたが、海よりも姫路市街がよく見えました。
公園からは元の山道に戻り、続いてありましたのは「薬師堂」です。
本瓦葺き宝形造りの薬師堂は兵庫県指定の有形文化財となっています。
説明では圓教寺最古の遺構となっているにもかかわらず、国指定となっていないのは何でなんでしょうかね~?(-_-)
この薬師堂(根本堂)は御朱印を「食堂」でいただいていますので、
お参りをさせていただきました<(_ _)>
「根本堂とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を、性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており、当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が見られ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、すでに何らかの宗教施設があったと推定されている。」
薬師堂の裏側に「姫路城主・榊原家の墓所」と、薬師堂を通り過ぎた所に「姫路城主・松平直基の墓所」がありました。
「松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康次男、秀康の第五子)。もと出羽国の山形城にいましたが、1648(慶安1)年西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました。
しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・直矩が姫路城主になってから1670(寛文10)年に分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました。」
山道を回り込んだ所に「鐘楼」がありました。本瓦葺き入母屋造りで袴腰付きの鐘楼は国指定の重要文化財となっていました。
「袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元亨四年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。
鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。
銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和25年8月29日指定)で、市内では最古のつり鐘である。」
中々凜々しい姿で袴腰があると形もバランスが取れてかっこいいです。
鐘楼の奥にあったのは「法華堂」です。本革葺き宝形造りで頂部の露盤宝珠が錆びているのが残念でした…(^^;) 形や雰囲気はいいんですが…
「法華三昧堂といい、創建は寛和三年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。
もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。」
これで全て見終わり、三之堂がある「常行堂」の裏側に出ました。常行堂の説明看板はこっち側にあったのかぁ~(^^;) ってか、こっち側が正面入口みたいですね~
常行堂の横から見た大講堂もかっこいいですね~(^^)/
行きでは見られなかった「大黒堂」と塔頭の「瑞光院」です。
行きのロープウェイは写真を撮り忘れたので帰りに撮ってみました♪
これで4回に渡ってお伝えした圓教寺も終わりです。
次回は姫路市内に行き、色々見て回ってきましたのでお楽しみに~(^^)/
根本堂の御朱印
場所:圓教寺(薬師堂)





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