2021
12/11
土
今回も『圓教寺』(えんぎょうじ)です。第三回目のUPになります(^^)/
奥之院の手前に「不動堂」がありました。
銅板葺き宝形造りでシンプルな形となっています。
「延宝年中(1673~1681)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄十年(1697)堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。
乙天童子の本地堂であるが、若天童子のそれはない。一説には、若天はその姿があまりに怪異なため人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている。」
続いて奥之院の最初は、左手前にあります「護法堂拝殿」です。本瓦葺き切妻造りで桁行7間ありますので横に長いです。国の重要文化財に指定されています。
「奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿である。
この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、この山で修業したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。
今もその勉強机が残っている。(食堂に展示中)」
左側が護法堂拝殿で、正面にあるのが「開山堂」になります。右手にチラッと見えるのが護法堂(若天社)になります。
護法堂拝殿の真向かいにあるのが「護法堂(乙天社と若天社)」です。
右側が乙天社で左側が若天社になります。両方とも檜皮葺き春日造りで国の重要文化財に指定されています。
「性空上人が康保三年(966)当山で修行中、いつも傍らで仕えた乙大護法童子と若天護法童子をまつる祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。
同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社。」
最後は奥之院の中心となる「開山堂」です。本瓦葺き宝形造りで頂部の露盤宝珠が立派です。こちらも国の重要文化財に指定されています。
「圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年(1007)上人の没年に高弟延照が創建、弘安九年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文十一年(1671)に造り替えられたもの。
軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある。」
開山した性空上人の名前が提灯にあります。
内陣前に掲げられている扁額は開山堂の名前がうかがえます。
賽銭箱のある場所でお参りをさせていただきました<(_ _)>
開山堂外陣の左側にあります納経所では、まずお目にかかることがない超レアな「チベット語」で書かれた御朱印をいただけます。
ガラス戸の中で、赤色の僧衣を着た僧侶の方はインドの方かな?と思ったんですが、話してみるとなんと日本人の方でした。インドで修行を積んだ後ここ圓教寺に来たとのこと。
チベット語の内容は聞けませんでしたが、新鮮な御朱印拝受となりました(^^)/
開山堂の右手側には宝篋印塔がありました。(左上)「伝和泉式部歌塚塔」と書かれた看板によると、高さ203cmで天福元年(1233)の銘があるようです。
開山堂の軒下を
撮りましたが、肝心の左甚五郎作の力士彫刻を撮り忘れました…(+o+)

開山堂から見た奥之院です。木々に囲まれホントに奥の院って感じです(*´з`)
御朱印は漢字の開山堂とチベット語は日本語に近い言葉らしいので、開山堂と書かれているのかな?
場所:圓教寺(奥之院)





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