2021
11/26
金
今回は、先月行きました「中山道垂井宿と垂井城跡」の時に、観光協会から教えてもらいました『菩提山城跡』(ぼだいやまじょうあと)に行ってきました(^^)/
「竹中半兵衛公の居城として知られる菩提山城は、竹中半兵衛の父である竹中重元が岩手を攻める以前より、それまでの為政者岩手弾正頼重が応永二十年(1413年)五月十三日付当時の室町幕府の将軍足利義持より所領安堵状を受けたことを記した文書により、それ以前からこの地に作られていたと考えられる。
岐阜県史によると天文十四年(1545年)竹中重元が岩手を奪取し、翌十五年に菩提山上に砦を築いたという記録があり、それまでの砦を改修したと思われる。菩提山城は、中世末期に築城された山城であったが、山城から平城に移り変わる山城築城期の末期に作られたものである。
このため、山城としては規模も大きく山城特有の空濠、堀切、竪堀・大手道等の施設がみられるとともに、曲輪の組み立てが、中枢曲輪・防御の曲輪・補給の曲輪、それぞれの曲輪固有の機能を連結させて、城を一つの要塞とした組み立てがうかがわれる。他の城跡と異なり、石塁の全く見られない、それでいて敵からの攻撃に対しては堅固にして綿密に計算された巧妙な作りとなっていた。
なお、この山城は1607年半兵衛の子重門が櫓門の陣屋に城を移した後は使われなくなった。半兵衛自身がこの城を居城としたのは、わずか七年ほどとのことであったとされている。その後四百年間手つかずの状態であったことにより、保存状態は良好である。
概 要
当山城は、本曲輪・二の曲輪・三の曲輪、並びに台所曲輪が一組になって城の中枢部を構成し、その他に多数の小削平地を有し、二つの大堀切、七条の竪堀、及び空濠とからなっている。塁はすべて土塁であり、石塁の見られないのが特徴である。」
駐車場
から竹中氏陣屋跡を通り越して、ちょっと南に観光案内図がありました。菩提山城に行くハイキングコースが書かれていましたので、「菩提入口」から城跡のある山頂まで登り、「大手道入口」の方へ降りてくる計画としました。

菩提入口から山頂まで1350m、山頂から大手道入口まで1950mと意外と大変でした(^^;)
交差点にあった看板には、ここから菩提入口までは1km!?の表示もありました… 大手道入口までは500mあるので、山道も含めて5km程歩くことになりそうです(^^;)
1kmの直線道路脇は全て田んぼかな~(^^;)
菩提山城は右端の山よりも更に右手の方にあります。
菩提山城跡ハイキングコースの菩提入口です。竹中半兵衛のノボリがあります。
階段を上がると白山神社の鳥居があり、芭蕉の句碑がありました。
句碑は元治元年(1864年)建立とあります。
白山神社の社殿手前には菩提寺のお堂がありますが、何のお堂かはわかりませんでした。菩提寺はこの下にあるようです。
「この石段下にあるこの寺院は近くに勢力を持っていた伊福氏の私寺で天長元年三月三日僧空海を開基として建立された。その後天長五年(828年)十月三日定額寺に定められた以後幾度か兵火にあい堂宇はことごとく消滅し天文年間に住憎祐運より再興され現在の建物は山門が江戸中期のものである。」と、書かれていました。
白山神社の左横を抜けて、いよいよ登山道に入ります。山道途中には休憩所もあり、高齢者もハイキングコースを歩いていました。
ハイキングコースの分岐地点です。まだ菩提山城跡までは510mあります、帰りはここを右に行くと大手道入口まで降りることができます。
分岐からしばらく歩くと「これより菩提山城跡」と書かれた、城跡の入口に着きました。
大手曲輪→三の曲輪→台所曲輪→二の曲輪→菩提山城説明図と縄張図です。説明は最初にありましたので割愛します。菩提山頂上は標高402mありました。
曲輪の中でも一番広い本曲輪です。大きなノボリには「竹中半兵衛重治公菩提山城跡」の文字が書かれていました。
濃尾平野が遠くまで見えますが、赤い矢印の右側が名古屋の高層ビル群で、左側が岐阜の高層ビルがある駅前になります。
下の柵がある部分が、本曲輪の下に位置する腰曲輪になります。
名古屋方面をズームしてみました(^^)/
当初の予定通り、大手道入口に降りてきました。入口には八幡神社がありました。
最後は大手道入口からちょっと南に下りた場所にある「禅幢寺」に立ち寄りました。
禅幢寺は西美濃三十三霊場十六番礼所となっており、過去に一度訪問しております。今回は、菩提山城主でもあった竹中半兵衛重治公の墓がありますので、お参りしてきました。
「竹中重元の子。天文十三年(1544)美濃国大野郡大御堂生まれ。
永禄元年(1558)父重元と共に岩手信久を襲い、岩手・その付近一帯を領知する。その後、永禄七年(1564)主斎藤龍興の悪政を戒めるためとして、主従十八人で稲葉山城(現岐阜城)を占拠するも、一年たらずして龍興へ城を返し、浅井長政の食客となる。永禄十年頃岩手に帰り、信長の臣となり、羽柴秀吉の寄騎となる。常に秀吉の傍らにあり、姉川合戦、小谷城のお市の方救出、長篠合戦、播磨攻略、黒田松寿丸(のちの長政)の匿い等、数々の功績を残す。天正七年(1579)播州三木の陣中に没す。三十六才。」とありました。
長くなりましたが、この後、垂井町駅前にある観光案内所に行って菩提山城跡の御城印をいただいてきました。
場所:菩提山城跡





この記事と関連する記事
AFTER「[兵庫県] 西国三十三所観音霊場の圓教寺 摩尼殿」
BEFORE「[京都府] 現代和風技術の粋が詰まった京都迎賓館」
COMMENT