2021
11/16
火
建勲神社に続いては、北東約700m歩いた所にあります
『大徳寺』(だいとくじ)に行きました(^^)/
大徳寺は寺域に20以上の塔頭を有する巨大寺院ですが、今回のお参りは本体である大徳寺のみとさせていただきました<(_ _)>
まずは、東側道路に面した入口に到着です。石畳の先に門が見えます。両サイドは
駐車場となっていました。山号は龍宝山、臨済宗大徳寺派の大本山になります。

切妻造り本瓦葺きの「総門」です。ここをくぐると境内です。
総門前には「大徳寺 秋の特別公開」として、3塔頭が公開していましたが、今回は時間の関係で大徳寺のみの観覧となります。
山門入ってすぐの所に「大徳寺山内図」がありました。境内図とは違い、塔頭も全て載っているので山内図になるんですねぇ(^^)/
最初に目に飛び込んできたのは、切妻造り檜皮葺き唐破風付きの「勅使門」です。慶長年間の造営で国の重要文化財となっています。
勅使門の裏側にあったのは、朱色の「山門(三門)」です。立入禁止ですので、この位置からの一枚のみです。現在の山門(三門)は、応仁の乱後の1529年(享禄二年)、連歌師宗長によって下層が寄進され、1589年(天正十七年)、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名づけられました。

ここの建造物は松並木に邪魔されて、全く全景が撮れない所ばかりでとても残念でしたが、写真は「仏殿」(本堂)になります。入母屋造り本瓦葺き一重裳階付きです。
現在の建物は1665年(寛文五年)、京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進によって建造されたもので国の重要文化財となっています。
仏殿前にあります「大徳寺のイブキ」です。現在の仏殿と同じ頃に植栽されたものと思われ、昭和58年に京都市指定天然記念物に指定されました。
唯一中を拝観できたのは、この仏殿だけでした。ただ、入口の外から見るだけですが…
中央には御本尊の釈迦如来坐像が祀られています。天井画は一般的な雲龍図かと思いましたが、「飛天」が描かれていました。ただもう色落ちが激しくて、確認するまで時間がかかりました(^^;)
仏殿の入口にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
仏殿の次にありましたのは、「法堂」(はっとう)です。こちらも仏殿と同じく入母屋造り本瓦葺き一重裳階付きとなりますが、一回り大きい建物です。
1636年(寛永十三年)、小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が再建されました。こちらも国の重要文化財となっています。法堂は拝観はできませんでしたが、狩野探幽作で天井に「雲龍図」があるそうです。
法堂の北側に「宗務本所」の看板がかかる本坊があります。写真は本坊の表門になります。
大徳寺の説明板がありました。
「臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺域に別院二ヶ寺と二十一の塔頭を有する。
鎌倉末期の正和四年(1315)に、大燈国師(宗峰妙超)により開創され、花園上皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。応仁の乱で建造物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が堺の豪商の庇護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建造物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建造物はほとんど整えられた。
三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財)・方丈(国宝)など、主要建造物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建造物である。方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画、古文書などの多くの寺宝を蔵する。
茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。」
と書かれていました。
たぶん庫裡だと思います。木の裏側にある玄関にてお声掛けさせていただき、御朱印をいただいて参りました。(^^)/
奥にあると思われます「方丈」「玄関」「唐門」は、国宝に指定されているようです。普段は見ることが出来ませんので、特別拝観等で見ることができるのかなぁ…?
最後は南門から出て行きました。真っ直ぐのびる参道の両脇は塔頭で埋まっています。南門外の外周塀内に寺号碑がありましたが、「大徳禅寺」と刻まれているのに上の3文字しか見えないって…
御朱印
場所:大徳寺





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