2021
11/11
木
御霊神社に続いては、歩いて2km(約25分)西にあります『建勲神社』(たけいさおじんじゃ)に行きました(^^)/
入口は東側道路に面した場所にあり、木製の大鳥居がありました。後ろに見える朱色の鳥居は末社の義照稲荷神社と命婦元宮の鳥居です。
向かって右手にある社号碑には「建勲神社」と刻まれています。
左手にあった立て札には神社の説明書きが書かれていました。
「織田信長を祀る神社で、通称「けんくん」神社と呼ばれる。
天下を統一した信長の偉業を称え、明治二年(1869)に明治天皇により創建された。同八年(1875)別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。
船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武(北の神)として造営の基準点にされたという場所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、主君である信長の廟所と定めている。
信長着用の紺糸威胴丸、桶狭間の合戦で信長が戦利品として持ち帰った義元左文字と称される太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。
十月十九日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄十一年(1568)に初めて入洛した日を記念したものである。」
創建は明治と新しく、直接織田信長と関わりがあったわけではないようですが、信長ゆかりの品を多数所有しているようです。
鳥居の右手内側に「建勲神社受付」がありました。誰も居ませんでしたが、普段はここで入場管理してるのかな?
境内略図と見所などが書かれていました。階段で標高約45mの小山を上がった先に本殿があります。拝殿に掲げられている信長公功臣肖像画や拝殿前から見える比叡山、大文字焼きがある如意ヶ嶽は絶景のようです。
鳥居を中に入って南に歩き、突き当たりを西に向いて階段を上がります。
階段の先にあります「大平和敬神」の石碑がある場所は、元本殿があった場所のようです。
石碑の前をまた南に少し歩くと、大曲りで階段を上がっていった先に建物と社号碑がありました。
社号碑には「別格官幣」とありますが、こちらは旧社格で、戦後神社本庁の別表神社に列せられましたが、2019年に神社本庁から離脱されたようです。
本格的に書かれた境内図がありました。これで建物名がわかるのでありがたいです(^^)/
先程見えていた建物は「貴賓館」と書かれていました。
お客様をご案内する場所でしょうか?
続いてありましたのは「社務所」と「祭器庫」です。社務所では左側に布の庇がある下で御朱印を書いていただきました。
拝殿前に手水舎がありましたので身を清めます。
拝殿前の立て札がありました。主祭神は織田信長公で、子の織田信忠公を配祀しています。
「織田信長公は戦火の巷と化した応仁永正の大乱に終止符を打ち、民衆を疲絶幣望から救い伝統文化に躍動の美を与え新秩序を確立して日本史に近代の黎明を告げ西洋を動かす力の源を追求し悠然として東西文化交流を実行した。
明治天皇より特に建勲の神号を賜い別格官幣社に列せられここ船岡山に大生の神として永遠に奉斎されている。」
狛犬の下に彫られている家紋(神紋)は、織田家を代表する「織田木瓜紋」になります。
入母屋造り檜皮葺きで妻入りの拝殿です。平成20年に国の登録有形文化財に指定されたので、周囲を囲いが覆っています。
拝殿入り口の賽銭箱の前でお詣りをさせていただきました<(_ _)>
拝殿の天井は、折り上げのある格天井(ごうてんじょう)と細工も美しく、天井下に掲げられている絵は、「織田信長公三十六功臣」として、信長と生死を共にした36名の有志が描かれています。
拝殿奥の本殿です。手前に神門があり、左側の建物は「神饌所」となります。本殿は一間社流造檜皮葺となっており、神門・神饌所共に国の登録有形文化財に指定されています。
拝殿前からは、先に見た貴賓館と社務所の後ろに流れる「東山三十六峰」が広がり、如意ヶ嶽の大文字焼など絶景の眺望を見ることができました。
大の字もちゃんと肉眼で見えるので是非確認して下さい(^^)/
参拝を終え、北東にある「大徳寺」に向かっている途中にありました社号標です。
各方面からの参道沿いに、全部で3箇所あるようです。
御朱印は走り書きに勢いを感じます。
場所:建勲神社





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