2021
11/06
土
相国寺のお参り後は北に400mの場所にある
『御霊神社』(ごりょうじんじゃ)に行きました(^^)/
西側道路に面した入口が正門のようです。(南門もあります)
御霊神社と刻まれた社号碑が鳥居の前にあります。
御霊神社の由緒・歴史が書かれた看板がありました。カッコ書きで「上御霊神社」とありますが、正式名は先に書いた御霊神社です。京都御苑の南にある「下御霊神社」に対し、京都御苑の北にある御霊神社を上御霊神社と呼ぶようです。
「祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢をはじめ、十三柱の神霊を祀る。
この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(794)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っている。
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄付品を多数蔵している。
本殿は、享保十八年(1733)に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。
また、境内は「御霊の杜」と呼ばれ、応仁元年(1467)正月十八日に畠山政長と義就の合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。」
石製の鳥居は明神鳥居で、額の部分と柱の上に菊花紋が付けられています。御霊神社の神紋は「有職桐」紋で御朱印にあります複雑な紋ですが、皇室との関係が深いため菊花紋も使われているのだと思います。
御霊神社の祭日が書かれていますが、こんなにも祭事があるんですねぇ~
鳥居のすぐ後ろには、神社では珍しい大きな楼門があります。寛政年間に再建しているようなので200年以上前に建てられています。
豪華な手水舎がありました。コロナがまん延してから消毒液が置いてある所が増えました。
参道の右手側にあったのは絵馬所です。下は休憩所になっていました。
社殿(拝殿)前に神楽殿があります。
神楽殿は銅板葺き入母屋造りでシンプルなものとなっています。
社殿(拝殿)は銅板葺き唐破風の向拝付きとなっており、彫刻や金の装飾も豪華です。由緒で書きましたが、御祭神は崇道天皇、他戸親王、井上大皇后、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、火雷神、吉備大臣の八柱に相殿5柱が祀られています。
向拝にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
南門前から神楽殿と社殿を入れた境内全景です。
境内の南西角に「応仁の乱発端の地」と言うことで石碑が立てられていました。
「文正二年(1467)正月十八日早朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁の乱」は始まった。前日の十七日深夜、畠山政長は自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣らと兵約二千を率いてここに布陣した。
翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就が兵三千余で攻撃をしかけ、十八日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉考景、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の最初の合戦である。
その年の三月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため、五月から上京を中心に、将軍・足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中、細川・山名両氏の間に和睦が成立し、文明九年(1477)、十一年間に渡る大乱はようやく収束をみた。
なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。」
楼門をくぐった左手奥に社務所がありましたので、御朱印をいただいて参りました。
御朱印は絵入りの御霊祭御車が書かれた豪華なものをいただきました。
場所:御霊神社(上御霊神社)





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