2021
10/22
金
前回は中山道垂井宿を歩き、「垂井城跡」までを報告しましたが、今回は中山道垂井宿の続きと、更に足を延ばして中山道垂井一里塚まで歩き、そこからは
車で3㎞北にある『竹中氏陣屋跡』に行ってきました(^^)/

まずは、南宮大社の大鳥居まで戻り、中山道の続きを歩きます。
見た感じはホントに普通な住宅街です(^^;)
ですが、たまにこういう
渋いのがあるんです。扉に旅籠(はたご)の文字がありますので、昔は旅人が泊まっていたんでしょうねぇ~(^^)/


立て札には「垂井宿お休み処(旧旅籠長浜屋)」とありました。
こちらは国の登録有形文化財となっている「小林家住宅主家」です。
「当家は、油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治十四年(1881)に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んできた建物です。建築された年代ははっきりしませんが、幕末頃には建てられていたものと考えられます。切妻造瓦葺つし二階建平入りの建物で、二階には両側面に袖卯建を設け、庇下には防火用の濡れ筵掛けが残っています。
外観、室内とも幕末の豊かな商家に相応しい品格を持っており、防火対策が随所に残された貴重な建物です。」 と、こちらも旅籠だったようです。
「本龍寺」山門前の中山道沿いに「高札場」(こうさつば)がありました。
「高札場とは法令や禁令を、木の板に墨書し掲示したものである。全国の人々に周知徹底させるため、津津浦々の人目につきやすい場所に設置した。
高札場はこのように屋根つきで一段高くなっていた。
内容はキリシタンの禁止や贋金作りや使用の禁止、親子兄弟の忠孝など守ることについて書かれていた。
垂井の高札場はこれより数メートル前の道路沿いに設置してあった。
火事が発生したら高札を外して、前の路地(高札用心道)を通り奥の池(高札用心池)に漬けた。(竹藪の所)天保二年(1831年)の古絵図には高札場と併せ、道と池が明記してある。」
ゆるやかに曲がる道は、やっぱり旧街道ならではだと思います。
垂井宿の西の終点である「西の見付」に到着です。
西の見付には歌川広重が描いた浮世絵、第五十八番目の宿場町である垂井宿のレリーフがありました。
「ここは、垂井宿の西の入口になる西の見付である。現在は、南側のみが昔の面影を伝えている。非常事態が発生した場合は見付を閉鎖し、宿場の安全を図った。
歌川広重作木曽街道六十九次の垂井宿の絵は、この付近から西側を描いている。雨の降る松並木の中を、粛々と大名行列が宿場へ向かっている。裸足で歩く宿役人が行列を先導する。道の両側には茶店があり、主人と客が下座して迎える。松の木や見付、茶屋などがほぼ左右対称の構図をなし、中央を走る街道の遠近感を際立たせている。奥行きとともに格式や緊張感を盛り上げる点で街道を描いた版画の傑作といえる。」
この付近を広重は描いたんですね~(^^)/
西の見付の状態が、昔のままで残っていると説明に書かれていたので
撮りました~。

続いては、しばらく中山道を関ヶ原方面に歩いていくと、漸く見つけました「垂井一里塚」の看板を!ここから200mの所にあるようです。
その途中に道標を見つけました。「南宮江近道八町」と刻まれたこの道標は、南宮大社までを案内する道標のようです。今は道は途切れてありませんが、京都方面からの旅人には近道(約900m)だったんでしょう。
立派な塚として残っており、国の史跡に指定された「垂井一里塚」です。石碑には「史跡 垂井一里塚」と刻まれています。
「徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を起点として一里(4キロ弱)ごとに、五間(約9メートル)四方、高さ一丈(約3メートル)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで二基ずつ築かれた。
垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。
旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰jは格好の休所となった。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれとの二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。」
反対車線から全景を見るとかなり大きな塚っていうのがわかります。当時はこれと同じものが道を挟んだ真向かいにあったんですから、わかりやすかったと思います。
ここからは、北に3㎞程の所にあります、「竹中氏陣屋跡」に向かいました。

「竹中半兵衛重治没後嫡男の重門が菩提山城を廃して構えた陣屋(『竹中家譜』「菩提山之城を下り、岩手作館居之」)の正門である。東側が正面で、大手の間口六間、奥行き三間木造の白壁塗りの櫓門となっている。
門の西側に千六百三十六坪にわたる陣屋が形成されていた。(東辺十間五尺、北辺三十七間半、西辺三十六間一尺、南辺四十ニ間二尺)菁莪記念館の復元模型をご覧下さい
当櫓門は明治新政府により学制発布により明治十四年に現在の岩手小学校の前進である『菁莪義校』の正門として位置づけられてきた。(「菁莪」とは中国最古の『詩経』より[有能な人材を育成するの意])
明治新政府の「幕府建造物破壊令」に対し高橋弥八郎氏等が「櫓門は菁莪学校の正門である」と主張し地元文化財としての存続に尽力され現在に至る。城(陣屋)の門が学校の門になっている学校は全国でも極めて稀で貴重な史跡となっている。」
とあります。
竹中半兵衛の城は菩提山城で、これは半兵衛の子「重門」の城(陣屋)だったようです。菩提山城はここから西にある山頂にありますので、近いうちに報告します(^^)/
陣屋正門です。説明にもありましたが、お城の敷地を囲っている塀にある櫓ですね~
入口前には「竹中半兵衛」の像や、竹中半兵衛の顔ハメ看板などがありました。
櫓門の前にはしっかり読めませんが、「岐阜県史跡竹中氏陣屋跡」と書かれているようです。
竹中半兵衛の説明板によりますと、
「重治公はこの地の菩提山城を本拠とし、智諜神の如しといわれた名軍師で、木下藤吉郎に三顧の礼をもって迎えられた。信長に仕え、秀吉の懐刀となり、形影相伴って各地を転戦し、知恵袋として活躍した無欲の武将であった。播州三木城攻略中惜しくも三十六才の若さで陣没した。墓はここより北五百mの禅幢寺にある。」
櫓の内側にありました神社です。
名前はわかりません、竹中氏陣屋跡の神社です。城の守り神として祀られたのかな?
櫓門を内側から見ています。石垣が立派に残っています。
城だったのでお堀があります。積まれた石垣が美しく、当時の雰囲気が出ています。
情報量が多かったですが、今回はここまでです。ここの訪問から10日後ぐらいですが、菩提山城も行ってきましたので、近々ご報告させていただきます(^_^)v
御城印には竹中家の家紋「九枚笹」の朱印が押されていました。
場所:竹中氏陣屋跡





この記事と関連する記事
AFTER「[京都府] 天皇家の歴史に触れる 京都御所」
BEFORE「[岐阜県] 中山道垂井宿と垂井城跡」
COMMENT