2021
10/18
月
今回はお昼休みに、仕事の訪問先にある『中山道垂井宿』に来ました(^^)/
岐阜県不破郡垂井町は、かの有名な「関ヶ原の合戦」の場となった関ケ原町の隣にあり、中山道垂井宿として江戸時代に賑わった町です。
今回はその垂井宿を、美濃路との分岐点となる「垂井追分」からスタートし、垂井宿から関ヶ原方面にちょっと行った場所にある「垂井一里塚」まで歩いてきました。また、垂井宿の中間地点にある『垂井城跡』に寄りましたので、今回はそこまで紹介します(^^)/
まずはスタート地点としました「垂井追分」です。黒い石の道標には「右~みち 左~みち」と刻まれているようで、そこの説明看板には「垂井追分道標」(たるいおいわけどうひょう)と書かれていました。
「垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。
追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ1.2m、幅40cm、表に「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とあり、裏に「宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平」と刻まれている。
この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もあった。」
と書かれていました。
追分を過ぎると、すぐに「相川」に架かる「相川橋」がありますのでそこを渡ります。
相川橋を渡った先に「相川の人足渡跡」の看板がありました。
「相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代には人足渡しによる渡川が主でした。
川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました。
一方、朝鮮通信使や姫宮などの特別な通行があるときには、木橋がかけられました。」
昔は人足渡しだったとの説明ですので、旅人も結構渡るの大変だったんでしょうね~(^^;)
橋を渡ると垂井宿の東玄関である「東の見付」に到着です。
大きな垂井宿の案内マップとその下に「中山道 垂井宿」と刻まれた石碑がありました。
「垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約440キロメートル、58番目の宿になります。
見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常事には閉鎖したりしました。
ここ東の見付から約766メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。」
今回は垂井宿の中心付近にあります「垂井城跡」に立ち寄り、「西の見付」は次回通過地点として紹介します(^^)/
見付から最初の曲がり口から先を見ています。中山道垂井宿は一般道となっていますので、周辺の建物は一般の住宅街となんら変わりありません。。。
突き当たりに見えていた建物は「旅籠 亀丸屋」となっていました。説明板では今でも営業しているそうです(^^;)
「亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館である。
安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。」
こちらの住宅も玄関に付いた唐破風風な屋根が実に昔っぽいので
撮ってきました(^^)/ 玄関には「丹波屋」の看板がありましたが、何屋さんかはわかりません。。。

「垂井宿本陣跡」の石碑がありました。
「本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。
ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の記録によると、建物の坪数は178坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。
本陣の建物は、安永九年(1780)に焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。」
中山道垂井宿の中間地点を過ぎた辺りにありましたのは、中山道と交差する場所に建てられた明神鳥居です。中山道を左に曲がった場所にありますこの鳥居は美濃國一之宮「南宮大社」の鳥居になります。南宮大社まではまだここから1.5㎞ほど先になりますが…
「寛英十九年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約四○○両の金で、石屋権兵衛が建てた。
横幅(内側)454.5cm 頂上までの高さ715cm 柱の周り227cm
正一位中山金山彦大神の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純法親王の筆蹟である。」
鳥居をくぐって100m程、中山道を離れますが、庭園が立派な場所に出ました。
岐阜県の名水と書かれた「垂井の泉」がありました。この場所にはシンボルとなる「大ケヤキ」があり、このケヤキの根元から湧出した泉だそうです。聖武天皇が立ち寄ったとの逸話も残っており、かなり古い歴史があるようです。
その大ケヤキがあった場所の上に広い場所があり、この写真
の正面真ん中に「垂井城跡」の石碑がありました。

「この周辺は、明確な遺構は残されていないものの、垂井城があったとされ、関ヶ原の戦い当時、西軍として参戦した平塚為広が居を構えていた。
越前(福井県)敦賀城主の大谷吉継は、徳川家康の会津征伐に加わる途中でここ垂井城を訪れた際、石田三成に為広とともに近江(滋賀県)佐和山城へ招かれ、家康への挙兵計画を打ち明けられた。挙兵を諫止しつつも三成に与した吉継とともに為広も西軍につき、伏見城や北陸方面攻略の後、関ヶ原に布陣した。
関ヶ原の戦い本戦当日は、病を得ていた吉継に代わり為広が前線の指揮を託され、藤川台で藤堂高虎・京極高知らを相手に善戦したが、小早川秀秋、次いで脇坂安治らが寝返ったため抗せず、吉継に辞世の句を送って討死した。」
史跡などは残されていないようで残念でしたが、街道を歩いたことで自分の知らない史実を知ることができたのは有意義でした。
今回はここまでです。次回は鳥居まで戻り、西の見付と一里塚、更に別の場所にも行ってきましたのでお楽しみを~(^^)/
御朱印に押されている朱印は城主であった平塚家の平塚梅鉢紋です。
場所:垂井城跡





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