2021
07/14
水
今回は、岐阜県にコロナのまん延防止措置が解除されたタイミングを見計らって、中津川市にある『馬籠宿』(まごめじゅく)に行ってきました(^^)/
馬籠宿は江戸時代に栄えた五街道の一つ「中山道六十九次」の43番目の宿場町になります。さすがに解除されたばかりのため、普段は人で溢れている宿場町も人が殆どいませんでした… 写真
は馬籠宿下入口になります。ここから石畳の坂を上がっていきます。

街道最初の左曲がりの所に馬籠宿の概要が書かれていました。
「中山道六九宿のうち、木曽谷には十一の宿場が置かれていた。馬籠は板橋を一番目とすると四三番目の宿場になり、江戸からの距離は八三里六町余りとなっていた。
街道が山の尾根に沿った急斜面を通っているので、その両側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴となっている。
宿場の中央には高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」、荷物運搬の差配をする「問屋」が置かれ、旅人の利用する「旅籠」が一八軒、このほか「飯屋」や「馬宿」があって、行き交う旅人で賑わった。
明治二五年(1892)に、木曽川沿いに国道が開設され、さらに明治四五年(1912)には国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えた。
明治二八年(1895)と大正四年(1915)の二度の大火で江戸時代の遺構の殆どを消失した。」
上の概要にも書かれていましたが、珍しい「坂のある宿場」のため、とても風情のある宿場町で、個人的にとても好きな場所です。
街道沿いにはお土産物屋さんや甘味処やお食事処などが並び、当時の屋号を掲げるなどして史跡の保全を皆が協力して行っているそうです。
馬籠宿上入口付近にあります、「馬籠宿高札場跡」になります。高札場(こうさつば)とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを板札に書いて、人目のひくように高く掲げておく場所になります。
高札場の上にありました、「上陣場跡」(かみじんばあと)です。天正12年(1584)、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの時、徳川方の軍が陣をとった場所で、恵那山が一望できるスポットとなっていました。
真ん中の一番高い山が恵那山です。
中山道の道標(みちしるべ)を見つけました。右川道、左やまみちと書かれていました。
ここからUターンして戻ります。
反対側から見ても雰囲気は素晴らしいです。
馬籠宿の途中にありました『永昌寺』(えいしょうじ)に寄りました(^^)/
入口にありました寺号碑には「西澤山 永昌禅寺」と刻まれています。山号は西沢山、寺号が永昌寺で、臨済宗妙心寺派の寺院です。
坂を登ると石段があり、石段上には四脚門の山門がありました。
境内に入ると、すぐ左手に方形屋根の「観音堂」があります。いろんな方のブログを拝見すると「無量壽堂」と書かれている方も多くいます。この観音堂には円空作の聖観音像が安置されているそうです。
山門右に鐘楼がありました。
桟瓦葺き入母屋造りの本堂です。本尊は釈迦如来になります。
いただいたリーフレットにありました縁起です。
「永昌寺は藤村の先祖島崎氏との関係がかなり深い。寺伝によると、馬籠島崎氏の先祖である島崎七郎左衛門が開基となって、長福寺(木曾福島)住職七世沢堂智仁を勧請開山として、永禄元年(1558)に建立されたということになっている。この永禄元年というのは、島崎氏の系図によると、重道が妻籠から馬籠に移った年に当っている。
寛文五年(1665)五月十一日に馬籠村の役人から、長福寺へ差し出した一札の控が残っているが、それによると、この時に当寺が長福寺の末寺となったことがわかる。また沢堂智仁は、寛文十一年三月十二日に没しているので、当寺が長福寺の末寺になるに当って、沢堂を中興勧請開山したものであろう。それが開基の島崎重道の時代と混同して、伝えられるようになったと考えられる。
本堂横の観音堂には、木彫阿弥陀如来坐像(像高五十八センチ)が安置されているが、檜の一本造りで平安時代末期の作である。また当寺には、円空の手になる聖観音像も在しており、裏に「施主桃雲宗源庵主」という墨書がある。
当時の十世桃林智仙は『夜明け前』の松雲のモデルで、永昌寺も作中では「万福寺」として登場している。本堂(寛政五年再建)裏手の庭は九世桑山素円が作り、この桃林が完成させたものであるが、花の咲く頃は特に美しく、本殿と客殿との間の太鼓橋も建物と庭によく調和している。動的な島崎正樹に対し、世の動きを静かに見つめ、寺を守っていた桃林の人柄が偲ばれる。
この島崎正樹が整理し、明治十四年四月二十一日に納めた「過去帳」や桃林の遺稿も「美濃州遠山庄馬籠村法眼禅寺之常住」という墨書銘のある大般若経二巻と共に保存されている。」
本堂右手には庫裡がありました。ここでお声かけさせていただき、庫裡の玄関から本堂へ案内していただきました。お参りをする間に御朱印帳を渡します。
本堂の外陣上に「西沢山」と山号の書かれた額がありました。
内陣にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
何気に玄関で待っているとき、ふと上を向くと「駕籠」(かご)が吊られていました(^^)/
武家であった島崎家は馬籠宿の本陣職を歴任しており、菩提寺であった永昌寺に駕籠があるってことは、身分の高い方用に使われていたことが想像できます。
因みに
撮ってきませんでしたが、島崎藤村のお墓もこの永昌寺にあるようです。

街道最初の曲がり坂の上からは、真正面に恵那山が飛び込んでくる超絶景となっています!
さぁここから駐車場に戻り妻籠宿に向かいます。
次回は妻籠宿の紹介をします、乞うご期待(^^)/
御朱印
場所:永昌寺





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