2021
06/29
火
今回は初めて島にある寺院に向かいました(^_^)v
島と言っても海ではなく、滋賀県は琵琶湖に浮かぶ島、「竹生島」(ちくぶしま)です。その島に西国三十三所観音霊場の第三十番礼所となっています『宝厳寺』(ほうごんじ)がございますのでお参りに伺いました~(^^)/
まずは、島なので船に乗らなければいけませんので、岐阜から一番近い場所になります「長浜港」に行きました。写真
はその乗り場となっています「長浜港観光船のりば」です。

ここで大人往復3,130円とちょっとお高いですが、支払いを済ませ約30分の遊覧船の旅に出ます。写真
は行きに撮り忘れたので帰りに撮っています(^^;)

竹生島の港に着きました。まず最初に正面の拝観券発売所にて拝観料を支払います。ここでは大人500円を納め入場できるようになります。竹生島には基本的に寺社関係しかないようで、拝観料となっていますが、島への入島料と考えれば安いくらいです。
ここを通ると、いきなり長い石段がありますので上がっていきます。途中の踊り場には「竹生島神社」と書かれた扁額のある鳥居があります。この踊り場を右に行くと国宝の「都久夫須麻神社」(つくぶすまじんじゃ)があるんです。案内図には「竹生島神社」となっていますが、こちらが別名のようです。
今回もちろんですが、この都久夫須麻神社も伺っているんですが、まぁコロナ禍で仕方がないとは思いますが、御朱印をいただけないか頼みましたが、宮司さんがおられるにもかかわらず一切応じていただけなかったのはちょっと残念だったので、今回は紹介なしです(-_-) せめて書き置きでも対応していただければよかったんですが…
更に石段を上がると、宝厳寺参道と書かれた先にまた鳥居が見えます。こちらの鳥居は横に「宝厳寺」と刻まれた寺号標まであるので宝厳寺の鳥居のようです。何故お寺なのに神社の鳥居があるんだろうって思われる方もいらっしゃると思いますが、いろんな所を参拝してると神仏習合時代の名残でそのまま残ってるのは良く見かけるので、そんな感じなのかな?
因みに、鳥居の扁額には「巌金山」と、ここの山号が書かれていました。宝厳寺は真言宗豊山派の寺院になります。
鳥居の内側右手には手水舎と左側には「瑞祥水」(ずいしょうすい)と書かれた井戸がありました。この霊泉の水は飲んでも持ち帰ってもいいそうです。
また石段です… 左手には「本尊大辯才天」(ほんぞんだいべんざいてん)と、ここ宝厳寺の御本尊が刻まれた大きな石碑がありました。
また石段の途中ですが、左側奥に「月定院」、手前に護摩堂がありました。右側には鐘楼堂がありました。
長い石段をようやく境内のある場所まで来ました。石段の右横には「行尋坊天狗堂」と書かれたお堂がありました。天狗の言い伝えでもあるんでしょうか?
この手前に「観音堂」への矢印が書かれている看板がありますが、奥へ行くと観音堂に行きますが、先に御本尊のある「弁才天堂」に行きます。観音堂は西国三十三所観音霊場となりますので、次回に報告しま~す(^^)/
石段の前に先程より大きい手水舎がありましたので、ここで身を清めます。岩をくり抜いた水盤には珍しく柄杓が置いてありました。最近はコロナの影響で中々お目にかかれていませんでした(^^;)
手前に「妙音天堂」と、奥には今回御朱印を書いていただいた「納経所」になります。
本堂になります「宝厳寺弁才天堂」の全景です。本堂の詳細なデータがないのでよくわかりませんが、檜皮葺き入母屋造りのようです。平屋建てなので、二重になっている屋根は下が裳階(付け庇のようなもの)だと思われます。
本堂前には重要文化財の「五重石塔」と、不動明王像がありました。五重石塔は比叡山から採掘した小松石で造られていると書かれていました。
宝厳寺は弁才天信仰の聖地とされていて、日本三大弁才天の一つにも数えられます。他の二つは広島県にある世界遺産の厳島神社と神奈川県の江島神社のようです。
昭和17年建築された本堂(弁才天堂)ですが、説明がされていました。
「竹生島宝厳寺の本尊は「弁才天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照皇大神の神託により僧行基に勅命し弁才天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁才天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年(1871)、やむなく弁才天像は塔頭妙覚院の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和12年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にも関わらず完成させたのが現在の弁才天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています。」とありました。
向拝は本堂内(外陣の外側)にあり、賽銭箱の前でお参りをさせていただきました<(_ _)>
周囲はお守り等の授与所にもなっておりました。
御本尊の御朱印
次回は三重塔~国宝の唐門、観音堂を紹介いたします、乞うご期待(^^)/
場所:宝厳寺





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