2021
06/19
土
金ヶ崎城跡の次に向かいましたのは、
車で数㎞の場所にあります

『気比の松原』(けひのまつばら)です。名勝という事で一度は訪れてみたいと思っていましたが、中々来る事ができず、今回初訪問となりました。
本当は松原も入れて撮れば良かったんですが、季節の割に人が多くて松原の影しか
写せませんでした(^^;)

Wikipedia 663highland, CC 表示 2.5, リンクによる
名勝 気比の松原 の説明
「ここ気比の松原は、三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに、日本三大松原の一つに数えられる。
その昔、聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した。そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した。そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し、あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた。
敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし、たちまちのうちに逃げ去ったという。
この伝説に因んで「一夜の松原」とも称せられる。
現在、気比の松原は、およそ東西一千メートル、南北四百メートル、広さ三十七.九ヘクタールで樹数約一万三千本を数え、海岸林としては全国的にも珍しく赤松が群生している。」
続いては、気比の松原を歩いて散策した後、
『永建寺』(えいけんじ)に行きました(^^)/
東側に立派な総門を構え、手前右手に寺号碑があります。寺号碑には「曹洞宗 曹紹山 永建寺」と刻まれています。山号は曹紹山、寺号が永建寺で曹洞宗の寺院になります。
参道は気比の松原バリに赤松が脇を固めています。
参道脇には六地蔵がありましたのでお参りしました。
境内に入る手前に楼門(山門)がありました。山号の扁額に、下のガラス張りの中には仁王像ではなく「持国天と増長天」が睨みをきかせていました。
参道正面に桟瓦葺き入母屋造りの本堂です。
左手には回廊の向こう側に鐘楼堂があります。裏側に出ましたら、どうやら鐘楼堂は境内の外にあります。今は外側は道路になっていますが、昔はここも境内だったのかな?(^^;)
鐘楼側から見た回廊です。真ん中に建つのが楼門です。
回廊から見た境内です。庭木が綺麗に手入れされとても綺麗でした。
境内左手にあったのは僧堂だそうです。左側の入口の額には「雲堂」と書かれています。
境内右手は庫裡です。本堂は開いていませんでしたので、庫裡でお声かけして庫裡の玄関から中の通路を通って本堂内でお参りをさせていただきました。
かなり大きな本堂です。御本尊は釈迦如来になります。
いただいたリーフレットにありました永建寺小史より
「永建寺は山号を曹紹山と称し、延元二年(1337年)越前金ヶ崎城落城の折、幾千の戦死者が出て、永く中有に迷い50有余年の間風雪暗夜に乗じて敦賀湾に亡霊となって救いを求めて出るという話を聞いた。当時、能登羽昨永光寺(当時山本寺)で修行中の真宗禅師(沓、山本家の祖先)が、敦賀に帰り七昼七夜に及ぶ読経を成し、坐禅石に単座し、永い間迷い続けた霊魂を鎮めたと言われる。これを聞いた郡主が鳥江という所にお堂を建てて師を迎えたのが、永建寺のはじまりである。だが、師はそれでは恐れ多いとし、師の本師である永光寺住職 宝山宗珍禅師を初代住職として仰ぎ、自らは永建寺二代目住職となられたのである。その後の国主大谷形部小輔が深く帰依し、現在の寺領を寄進し、慶長二年(1597年)に現永建寺が建立されたのである。」
庫裡の玄関から真っ直ぐ突き当たりが、本堂の元玄関辺りと繋がってました。
畳の敷かれた縁側から内陣に入る入口上に永建寺と書かれた扁額があります。家紋は五七桐のようです。
その縁側に掲げられていた額に入った
写真が10枚以上ありますが、これは楼門の上に祀られている「十六羅漢坐像」です。木造で延宝七年(1679)の作で敦賀市の指定文化財になっています。



本堂でのお参り中に御朱印を書いていただき、この
写真の御朱印帳まで頂きました(^^)/ 「釈迦三十二禅刹」と書かれた霊場専用の御朱印帳のようです。永建寺は第二十二番礼所となっていました。


場所:永建寺





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