2021
06/09
水
続いては、『金崎宮』(かねがさきぐう)になります(^^)/
前回紹介した金前寺の目の前にあります社号碑に「官幣中社金崎宮」と刻まれています。明治維新以降の神社制度で、「近代社格制度」の一つの社格で表しています。
金前寺を過ぎた坂道の差し掛かりに「花換の杜 金崎宮 駐車場」の看板があり、更に登っていきます。金崎宮では
桜の季節に「花換まつり」が行われ、男女が
桜の小枝を交換することで思いを伝え「花換え」をしたカップルは幸せになれると言われ、いつしか"恋の宮"と呼ばれるようになったようです。


更に石段を上に登ると、石製の鳥居がありました。
銅製の扁額には社名が書かれています。(嵜は崎の旧字)
鳥居横の縁起看板がありました。御祭神は恒良親王、尊良親王となります。
「當宮は敦賀市の有街地の東北に位置し、元官幣中社の社格である。
この金崎山は気比大宮司氏治の居城でもあり延元二年(1337)三月六日落城す。その時城中に在られた尊良親王は自刃され、義顕氏治らの将兵三百余人も殉じ果てた。皇太子恒良親王は逃れられるも後に幽閉され、翌年京都にて他界される。
金崎城落城後五百五十六年を経て明治二十六年(1893)敦賀の人々の熱烈なる請願によって尊良親王、恒良親王を祭神に社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である。
又落城の時、殉難した将士を祀る絹掛神社は、これら将士の子孫が有志を募り手続きを経て明治三十年(1897)創立認可を受けて設立されたお社である。
この金崎城趾は昭和九年(1934)史蹟として文部省より指定を受け、月見御殿の旧趾、焼米出土地、経塚のあと、木戸堀切の旧趾などあり由緒の地である。」と縁起が書かれていました。
社務所前にあった「金ヶ崎案内図」です。金崎宮から金ヶ崎城址までが入った案内図は、今回もとても役に立ちました(*^^)v
社務所にあります授与所にて、御朱印と金ヶ崎城の御城印をいただけます。桜色の和紙に書かれた限定?の御朱印もありましたが、今回は通常のものだけにしました。
豪華な手水舎です。ここもコロナの影響で柄杓はなく、流水で直接手を清めました。
下の境内の左手には設置されていた時計台は「御鎮座貮拾年記念」と刻まれています。明治23年(1890)に金崎宮が建立されたそうなので、20年記念と言うことは1910年なので100年以上前の時計台と言うことですかッッッ!!
拝殿前の二の鳥居です。銅板巻きで緑青が出ており、いい雰囲気となっています。
銅板葺き入母屋造りの神楽殿(舞殿)です。かなり大きな神楽殿なので、お祭りとか例祭の時に神楽を舞い奉納されるのでしょうねぇ(^^)/
境内右手にあった建物は授与所のようですが、当日は使われていませんでした。
地元の工業高校が制作したと思われる「金ヶ崎城」の模型が展示されていました。
銅板葺き切妻造りで千木と鰹木のある本格的な神門です。神門から先は立入禁止でしたので本殿の撮影はできませんでした。本殿は三間社神明造だそうです。
神門にある賽銭箱の前でお詣りをさせていただきました<(_ _)>
神門の左側だったかな…(^^;) 摂社の絹掛神社がありました。
続いては、境内にありました看板の「金ヶ崎城址」に登りま~す(^^)/
ここにも明智光秀が関係してるようで、「麒麟がくる」の宣伝ってすごかったんだなぁ(^_-)
御朱印です。
場所:金崎宮





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