2021
02/04
木
大雄寺に続いては、お隣にある『雲龍寺』(うんりゅうじ)に行きました(^^)/
大雄寺本堂の西側を真っ直ぐ進んだ先に裏門がありますが、その中が雲龍寺になります。
正門は西口になりますので、そこから中に入るため向かいます。入口には門柱が両脇にありますが、寺号は刻まれていませんでした。
住宅の間にある細い参道を上に上がりますが、あまり使われてないのかな(^^;)
境内に入る場所に「鐘楼門」がありました。上に梵鐘があるので重層屋根となっており、銅板葺き寄せ棟造りとなっています。
門柱には「曹洞宗 雲龍寺」の札と「飛騨三十三観音霊場第三番礼所」と書かれた札が掛かっていました。見えにくいですが、扁額には山号の「海蔵山」の文字が入っています。
「高山城破却の際、城内の「黄雲閣」という建物を当寺へ下げ渡されたと伝えられる雲龍寺鐘楼門は、天正十年(1582)本能寺の変に際し二条城において十九歳で戦死した金森長近の長子忠郎長則の菩提寺として長近が修営した。
屋根はゆるやかな曲線をもち、頂部に露盤と宝珠をのせる。初層中央通路の両側にふところを設け、南東側に階段がある。上層外廻りに戸溝があり、中央通路の両側が入り込みとなっていることなどから、元は寺院の鐘楼門ではなかったことが分かる。
慶長六年(1601)、金森長近より「黄雲閣」という建物を賜り、のち鐘楼門となったと『高山市寺院由緒記』には記される。享保十四年(1729)の大火にも、羽目板の一部に焼痕をとどめただけで焼け残った。
東山白山神社は、雲龍寺の鎮守として祀られてきた。塔頭(境内にある小寺)に栄鏡院、久昌寺がある。」
と、説明板に書かれていました。
境内から見た鐘楼門です。鐘楼門は市指定重要文化財となっています。
門前からの本堂です。銅板葺き入母屋造りで、屋根に緑青が出ていい塩梅になっています。
普段は使われていない玄関です。左に行くと本堂、右に庫裏となります。
とても大きな庫裏です。普段使いはこちらの玄関になるんでしょうねぇ~
境内の右端(大雄寺側)にある小さなお堂には「烏頭沙摩明王」と書かれた扁額がありますので、烏枢沙摩明王堂(うすさまみょうおうどう)くらいになるんだろうと思います。
境内の北西からの本堂全景です。本堂の入口に扁額が掲げられていますが、何て書いてあるかは不明です…(^^;)
縁起はホームページより抜粋転載
「当山は奈良時代の養老四年(720)に、泰澄大師が白山社を創建して別当とした妙観寺が元と伝わります。室町時代の応永二年(1395)、当山二世竹窓智厳禅師が求法の旅の折、たまたま飛騨へ巡錫され白山権現の別当妙観寺へ立ち寄られましたが、寺は無住となりすっかり荒れ果てていました。竹窓智厳禅師は荒廃した妙観寺の堂宇を修復し、曹洞宗大本山総持寺の門末として寺を開くこととし、師の了堂真覚禅師を開山に請して曹洞宗飛騨最初の道場雲龍寺を創建しました。
当山は高山城主金森長近公の長子忠次郎長則の菩提寺です。長則は織田信長公の長子信忠に仕えていましたが、天正十年(1582)六月に本能寺の変が起きた際、二条城で襲撃を受け、十九歳という若さで主君と共に亡くなりました。天正十四年高山城主となった父金森長近公は長則七回忌に当たる天正十六年、当時高山第一の古刹雲龍寺に於いて盛大に法要を営み、長則の菩提寺に定めると共に寺領の寄進、堂宇の修復などを行い、金森代々当時大檀那として大いに帰依しました。」
御朱印拝受のお願いに伺うと、本堂内にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
又、本堂裏のお庭が紅葉(11月末訪問)で綺麗でしたので1枚
撮ってきました(^^)/

「室町時代作庭とも言われる庭園がひとときの安らぎを与えてくれます。心字池の周りを半円形に刈り込んだ躑躅が波形に植え込まれ、松、椿、楓が調和よくその上を囲み、春は新緑と躑躅、夏は無数の可憐な山野草、秋は真っ赤に色づく木々、冬はしっとりとした雪景色と四季それぞれに趣を見せてくれます。」
と、かなり古い庭園のようですが、見事に手入れされており、訪れる参拝者を感動させてくれているようです

御朱印
場所:雲龍寺


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