2021
01/30
土
櫻山八幡宮の次に向かいましたのは、南に約600m程歩いた所に位置し、高山市中心街より東にある東山寺院の一つ『大雄寺』(だいおうじ)に行きました(^^)/
国分寺通り沿いに出ると歩道橋の手前に勇壮な山門がありました。石段の両側に大きな「門かぶりの松」が立派な構えで植えられています。
歩道橋の上からは山門がよく見えます(^^)/
寺号標には「浄土宗 大雄寺」の文字が刻まれています。
境内にあった立て看板には山門とありましたが、重層の楼門で、下には仁王像もいますので仁王門とも言えます。扁額には「東林山」と山号が書かれています。
木造の仁王像です。作者や製作年代は不明です。
大雄寺山門は岐阜県指定重要文化財となっています。
「大雄寺は、もと吉城郡上広瀬村(国府町)にあったが、金森氏入国後現在地に移され、浄土宗の道場となった。上広瀬には「大雄寺屋敷」という地名が残っている。市内唯一の楼門造で、法華寺、宗猷寺の本堂と共に東山寺院群伽藍の代表的な建物である。
十二本の丸柱は太く、カツラ材である。通常のヒノキやスギではなく、カツラやクリ、マツなど多彩な木材を使うことも、木材を知り尽くした飛騨匠の技の大きな特徴である。落し込み板で囲まれた仁王座前の南北が、透し菱形欄間になっている。透しを通して東山の景観を見せようとの配慮からである。両脇に仁王像を安置している。
二層柱間は下層より狭く、柱頭の二手先和様斗組が深い飛檐軒を支える。下層屋根上に三斗組腰組で縁を張り出し、高欄で四面を囲む。ここからの市内の眺めはすばらしい。
寛政三年(1791)の大風で倒壊したが、十七年後の文化四年(1807)、飛騨権守宗安の流れをくむ近世の名工水間相模の手で再建された。」と書かれていました。
山門から境内内部を見ていますが、更に一段境内は上がっています。
入って右手に岐阜県指定重要文化財の鐘楼堂がありました。
元禄二年(1689)棟梁松田又兵衛作。入母屋造り銅板葺きで屋根の反りが美しいです。
入母屋造り銅板葺きの本堂です。昭和四十四年に火災にあい、再建されたもののようです。御本尊は阿弥陀如来になります。本堂向拝左には「香荘厳院」と院号が刻まれた石碑もありました。
由緒はもらってきた資料によりますと、
「飛騨の信仰の中心地、ここ東山寺院の中で最も古い歴史を持つ当寺は天正十四年(1586)に建てられた。時の高山城主金森長近公が重い眼病にかかり京都より薬師、堀安信を呼び寄せた。眼病が治った褒美に何でもとらそうという言葉に、「私は念仏の信者であるからこの地に念仏の道場が欲しい。」と答えた。この言葉によって国府町上広瀬追分にあった証空上人開創の大雄寺は飛騨の本願念仏根本道場としてこの地に移築されたのである。江戸時代に入ると当寺は飛騨之国の徳川家菩提寺に制定され、徳川家の葵御紋を賜った。」
とありました。
本堂の向拝にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
本堂左側からの境内です。奥の大きな建物が庫裡になります。
本堂の西側には「十王堂」がありました。
山門下にある「観音堂(六角堂)」です。お参りをさせていただきました<(_ _)>
「文政十年(1828)建立。 ご縁日 毎年八月十日(九萬九千日)
西国、秩父、板東の各三十三観音霊場より勧請された九十九体と本尊如意輪観世音菩薩、合わせて百体の観音菩薩が祀られています。
昔、全国で観音霊場巡拝が盛んになった頃、それが困難であった地域の人々はこの観音堂へ参詣することで各地の霊場に思いを馳せたと伝えられています。
六角の屋根を持つ建物で通称「六角堂」とも呼ばれており、六道の世界を観音菩薩が化益し救われゆく願いが込められています。」
大玄関に「方丈」の額を持つ大きな庫裡にて御朱印(書き置き)をいただきました。
御朱印
場所:大雄寺


励みになりますので、よければポチッとお願いします(^^)/

この記事と関連する記事
AFTER「[岐阜県] 高山市 室町時代の庭園を持つ 雲龍寺」
BEFORE「[岐阜県] 高山市 飛騨國の八幡神社 櫻山八幡宮」
COMMENT