2020
12/26
土
清昌寺を後にして次に向かいましたのは、『妻木城跡』(つまぎじょうあと)です。多治見市からは東に向かい、土岐市の県道19号「とき窯元街道」沿いに「南登山口駐車場まで1.5km」と書かれた入口看板を見つけました。
南登山口駐車場
手前に案内看板がありました。



ちょっと歩くと分かれ道に出ました。天守のあった場所へ行くには右に行きますが、まずは左の「くさび跡の石」側へ寄り道します。
何もない所に「井戸跡」の看板がありますが、妻木城内に2ヶ所あった井戸の一つで土塁に囲まれた内側にあります。
十字に刻まれた「くさび跡の石」です。堀の掘削は、花崗岩の巨岩によって困難を極め、太鼓櫓の南にくさび跡が残る巨岩は、岩の除去を断念したものと思われます。
ちょっと戻り、最初の分かれ道を右に進むと、一の曲輪下にある「帯曲輪」があります。花崗岩の巨石群は積み上げたようにも見えます。
巨石群の上にあるのは広い「一の曲輪」です。
一の曲輪の端に「伝旗立岩」があrました。
一の曲輪にはその他に「伝物見杉」「城山八幡神社」がありました。
「二の曲輪」から見た一の曲輪の石垣です。形が綺麗に残っているのは珍しいです。
二の曲輪には鳥居と、その手前に立つ社号碑には「福徳神社」の文字が…書かれていました。こちらが当時の城の守護神だったんでしょうか?
二の曲輪と「三の曲輪」にある虎口・門跡です。
三の曲輪に入る所に妻木城跡の説明板がありましたが、あまり歴史に触れていなかったので、「妻木城士屋敷跡」にある説明板がわりと人物に対することも書いてあったので、それを写しました。(^^;)
妻木城の歴史
「妻木城は土岐市の南部、妻木町を見下ろす標高409mの城山の山頂に築かれた山城です。また城山の北側山麓には御殿跡、士屋敷跡と云われる遺構が残されています。
いつ築城されたかは定かではありませんが、暦応二年(1339年)に土岐明智頼重(土岐明智氏、妻木氏の祖)が、祖父である美濃守護土岐頼貞の遺領を継ぎ、妻木郷の領主になった後に築城されたと云われます。
土岐明智氏が代々妻木郷を治めますが戦国時代に入ると没落し、城主は一族の妻木氏に変わります。妻木氏は織田武田の抗争に始まる動乱期に遠山氏、小里氏など周辺領主が没落していく中で一貫して妻木郷を領してきました。
妻木氏は関ヶ原の戦い(1600年)に東軍(徳川方)に味方し、岩村城(恵那郡岩村町)を攻略します。その戦功により土岐郡内7500石の領主として三代続きますが、万治元年(1658年)城主が急死し跡継ぎが無く、妻木氏は断絶し妻木城は廃城になりました。
妻木城主は代々陶器の生産を奨励し、織部志野などに代表される美濃焼を育てた領主としても注目されています。
妻木城は築城から廃城まで約六百年間に渡って存続し、時代と共に改修されてきました。山上には曲輪(くるわ)や堀切、土塁、石垣などが残り、本丸、太鼓櫓、蔵跡などの伝承が今に伝わります。また山麓には関ヶ原の戦い以後大改修されたと思われる御殿跡や士屋敷などの区画が石垣とともに残されています。
近世初頭の城郭遺構が居館や家臣団の屋敷、城下町を含めて残されている例は全国的にも極めてまれで、山麓の御殿跡、士屋敷跡も含めて岐阜県史跡に指定されています。」
土岐明智頼重は子孫に織田信長に重用されて織田四天王の一人に数えられ、本能寺の変を起こした明智光秀が有名ですねぇ(^^)/
二の曲輪の北側には「三の曲輪」があります。山の北側に位置し、眺望が最高な場所です。
三の曲輪からの妻木町側を見た眺望です。矢印の部分には6年前の2014年に大噴火を起こした、岐阜県と長野県境にある「御嶽山」(おんたけさん)がうかがえます。最近は噴煙は遠くからは見えなくなりましたが、2,3年前までは遠くからでも噴煙が見えました!
登山口の所にあった、観光案内所の案内板に御城印がもらえる場所が書かれていましたので、妻木公民館に行って購入してきました~(^^)/
御城印
場所:妻木城跡


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