2020
09/28
月
国宝犬山城を背にして、綺麗に整備された「本町通り」を南に進みます。
道路は歩行者天国ではないですがカラー舗装され、右も左もお土産やさんや食べ物屋さんで溢れていました。ちょうどお昼時でしたのでお蕎麦を頂きました(^_^)v
さて続きましては、この本町通りを南に行き住宅街に入った所にありました
『先聖寺』(せんしょうじ)への訪問です(^^)/
「犬山の唐寺」の看板がある場所に参道入口がありました。
寺号碑には「神護山 先聖寺」の文字が刻まれています。山号は神護山、寺号が先聖寺で正式名称が神護山先聖寺です。黄檗宗の寺院になります。
この参道は本当に見落としがちな場所にありました(^^;)
「犬山の唐寺」と書かれた看板中央には御本尊である「聖観世音菩薩」の名前とその御利益(解難、健康、安全)が書かれていました。
その他、御本尊以外に祀られて御利益を賜れるのが「さわり布袋」と「関聖帝君(かんせいていくん)」となります。
参道の突き当たりにありました薬医門の山門です。
山号の「神護山」と書かれた扁額が掲げられています。
潜り戸の扉に「犬山七福めぐり」のポスターが貼られていました。
ボクが昨年廻った時にはこの「先聖寺」さんはなかったんですが、どこかが入れ替わったんでしょうねぇ~(^^;)
境内に入り最初に「先聖寺沿革」が書かれていました。
「當寺は禅宗黄檗宗(本山宇治の萬福寺開山隠元大和尚)の末寺である。
延宝四丙辰年(1676年)名古屋竹屋町より浄土真宗泉正寺という潰寺の号譲り受け、開山上州黒龍山不動寺潮音道海大和尚とし、開基はその弟子玉堂大和尚<没元禄七甲戌年(1694年)>を請け熊野山先聖寺と称した。(現在の熊野町熊野権現之社東)
玉堂大和尚は博学大徳で城下はもとより近隣より参禅する者多く、町医鈴木玄察、内藤丈草など巨なる者あり蕉門四哲(其角、嵐雪、去来、丈草)の一人丈草は玉堂大和尚より多大の影響を受け出家までした。
その時の歌に
「身をかくす 浮世の外は なけれども
のがれしものは 心なりけり」があり、
句碑(昭和二十八年建立)木曽川辺にて
「ながれ木や 篝火の空の 不如帰」がある。
正徳五乙未年年(1715年)来鳳和尚が現在の外町天神庵に移転し、神護山先聖寺に改め、諸堂を西向きに造立した。
享保十三戊申年(1728年)より密傳和尚が大施餓鬼を始め、仏殿を東向きにし、大門口を町並へ替え現在の門是なり。
昭和三十四年(1959年)の伊勢湾台風にて仏殿、鐘楼門等を倒壊した。
平成十六年二月、儒教、道教、仏教の三教一致の根拠地となるべく、黄檗風二層平屋建の本堂の建設に至った。
「三級浪高魚化龍」より登り口、柱、天井(黄光琳画)と三段の龍を配し、屋根には摩伽羅をのせているのが特徴である。」
境内北側には庫裡(住職住居)があり、御朱印拝受場所もここになります。
庫裡の奥には「外町天満宮」がありました。神仏習合の名残ですかね~?
朱色の本堂です。沿革にも書かれていましたが、2階建てのように見えますが平屋で、上の屋根の下に軒屋根をかける裳階(もこし)となっています。
正面の階段中央に、龍をあしらった石製の彫刻があります。
その他にも向拝を支えている柱も龍の彫刻となっています。いずれも石製なので凄いです!
天井から吊られている巨大な魚は鯉かな??(^^;)
先聖寺と書かれた扁額が掲げられた向拝です。
虹梁や蛙股など色鮮やかに着色されています。
一通り拝見させていただき、お参りをさせていただきました<(_ _)>
本堂内は土足でOKでした!中心に祀られている金色の像が御本尊の「聖観世音菩薩」。賽銭箱の前に「さわり布袋」。右の金色の像が「関聖帝君」になります。
「さわり布袋」の頭とお腹はツヤツヤでした(^^)/
天井目いっぱいに描かれた龍の天井画です。黄檗宗で龍は仏法を守護する八つの神様の一つ(龍神)で、黄檗宗のお寺の天井には龍が描かれているそうです。
ステキな御朱印を頂きました(^_^)v 1,000円とちょっとお高いですが…
初めて訪れた人にはこの龍虎の御朱印を書いていただけるそうです。順番に書かれるものが変わるそうで、季節による特別な御朱印もあるようです。(^^)/
場所:先聖寺


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