2020
06/28
日
小谷山の麓にある小谷寺を参拝後は、いよいよ『小谷城跡』(おだにじょうあと)のある小谷山に登ります(^^)/
標高は495mですが、本丸までは346mなのでそこまでなんとか頑張って登ってきました。(^^;) 日本五大山城の一つに数えられ、日本100名城、国指定史跡になっております。
まずは、「小谷城跡入口門」です。ここの
駐車場に
車を停めて登ります。


門の横にあります「小谷城跡案内図」を見ると、標高の高い位置に曲輪が見事に連なっています。この山城を造るのも相当大変だったんでしょうねぇ(^^;)
「NHK大河ドラマ 浅井三姉妹 江~姫たちの戦国」放映記念と書かれた石碑の横に、巨大な兜のモニュメントがあります。大河ドラマは10年程前になりますか、江は上野樹里さんが演じていましたね~!その頃はノリにのってた女優さんでしたが、最近はあまり見掛けませんね?(笑) 兜は浅井長政の家紋「三つ盛亀甲」があしらわれているので長政の兜のモニュメントでしょう!
「戦国ガイドステーション」もありますが、当日はお休みしていました…( ̄▽ ̄;)!!ガーン
「史蹟 小谷城址」と書かれた石碑が山の入口にありました。
山の入口には他に「国指定史跡 小谷城跡」と書かれた縁起看板が掲げられていました。
「小谷城は戦国乱世の大永四年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの五十年間、浅井氏が根城としたところであり六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
また、この城は信長の妹お市の方の住した所でありその子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあって、ひとしお旅情をそそるものがあろう。小谷城は、北国街道、中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すればはるか湖南・湖西・京都へと通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金御門、大広間、本丸、中ノ丸、刀洗池、京極丸、小丸と続き海抜三九五メートルの山王丸を頂とする。山腹には赤尾屋敷、御局屋敷、大野木屋敷を始め、削平地、竪堀等遺構は全山を埋めている。更に主峰大獄六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籍のみが、昔の悲劇を物語っている。」
織田信長に敗れ落城してからは、先に見てきた「長浜城」に城下が遷されたみたいで、今は見る影もなくなっています。
小谷山の入口には他に歌碑があり、環境保全林として管理されているようです。
登り始めて最初にあったのは「出丸跡」です。
「主郭尾根の最先端にある曲輪である。独立した砦となっており、上下二段の曲輪と土塁からなる。小谷城を守る最前線の砦で、城下を見下ろすように設けられています。」
一番高い山が岐阜県境にあります「伊吹山」標高1,377mの山になります。
この分かれ道からホントの山道になります。番所跡まで約1.2km…結構辛かったです(^^;)
途中にあった「間柄峠址」。
「大永五年(1525)六角高頼が浅井亮政を討つべく、小谷城を攻めた時、越前より朝倉氏の軍奉行朝倉教景が来援した。その朝倉教景に従ってきた武将真柄備中守が守った所で、その名をとって真柄峠と呼ぶようになったと伝えられている。」
番所手前にあった「金吾丸跡」。
「大永五年(1525)六角高頼が小谷城を攻めた時、朝倉金吾教景がここに布陣したと言われ、教景の名乗りを取って金吾丸と名付けられたと伝える。四段の曲輪と土塁からなる。」
番所跡手前にありました「小谷城跡絵図」です。ようやく連なる曲輪の手前に来たところです。ここから「本丸」まであと少しです。
「番所跡」 遠方からは見えず間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所である。北の下方には数段の削平地があり相当な規模である。
番所を過ぎると「虎御前山展望所」がありました。長浜市湖北方面を一望です。
眼前の虎御前山(とらごぜやま)に小谷城を攻略するために信長が陣を張った山城です。
ここからは細かい跡がたくさんありますので、
写真と名前のみです(^^;)

「御茶屋跡」
「馬洗池 御馬屋」
「御馬屋跡」
「首居石」
「赤尾屋敷」
「桜馬場跡」
「黒金門跡」
「大廣間跡」です。
「別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ約85m・幅約35mで前面に高さ約4mの石垣が積まれている。大広間跡は、建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。」
標高340mの位置にこれだけ広いスペースがあるのは驚きです。
やっとたどり着きました「本丸跡」です。
「江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。」
こんな場所にお城があったと思うと、昔の人のマンパワーって現代人には理解できないよねぇ(^_-)
下山途中、東の眺望です。
下山してきまして、最終目的地は「小谷城戦国歴史資料館」でした~(^^)/ ホントは歩いて全部廻りたかったんですが、ほぼ一日かかっちゃうような距離でしたので端折りましてスイマセン(^^;)
入館料は一般個人300円です。館内は撮影禁止でしたので入口内部だけ(^^;)
受付にて小谷城の御城印を300円でいただいてきました。内部は小谷城址の展示物で溢れていましたよ~♪
御城印
場所:小谷城跡



よければポチッとお願いしま~~す(^^)/

この記事と関連する記事
AFTER「[滋賀県] 日本三大地蔵の一つ 木之本地蔵院」
BEFORE「[滋賀県] 長浜市湖北町に鎮座 小谷寺」
COMMENT