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大人の事情 ~御朱印ライフ~

付き合いで始めた寺社(御朱印)巡り、今じゃ週末のライフワークになりました~♪

2020 04/19

[岐阜県] 日本三大山城の一つ 岩村城跡


龍馬神社からは、中津川市の隣りの市になります恵那市岩村町にある『岩村城跡』(いわむらじょうあと)に行きました(^^)/
苗木城跡も山城でしたが、こちらも同じ山城で日本百名城にもなっているため、一緒に廻るといいと思います。まずは岩村城登城口の石碑がある入口に来ました。

岩村城跡 登城口




右手は駐車場になっており、一番奥にトイレと有料ですが「岩村歴史資料館」があります。今回は時間の関係で資料館は寄りませんでした。

岩村城跡 駐車場




左手には温泉があり宿泊ができる「岩村山荘」があります。何故かここで御城印を頒布されています。(^^;)

岩村城跡 岩村山荘




駐車場には「岩村城跡案内図」がありましたので、この案内図通りに登城道をたどり「本丸」まで向かいます。

岩村城跡 案内図




駐車場の入口右には、美濃国岩村藩出身の儒学者である「佐藤一斎翁像」がありました。門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがおり、一斉の著書である「言志四録」は幕末の西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などに大きな影響を与えたと言われています。

岩村城跡 佐藤一斎像




岩村藩に建設された藩校の「知新館」は文教藩として全国に名を馳せました。写真の門は城門の復原か、知新館の門だと思いますが、説明はありませんでした。

岩村城跡 知新館

岩村城跡 門




門から外側に出て、鎧壁の塀沿いに先には太鼓櫓と城門があります。太鼓櫓は復原と思われますが、そばにあった「太鼓櫓のいわれ」によると、江戸の平和な時代に本丸から城の山麓に藩主邸を移し、太鼓櫓を設け城下に時を知らせたとあります。現在は岩村町が進める創生事業のモニュメントしての建物となっています。

岩村城跡 鎧壁

岩村城跡 太鼓櫓




最初の登城口に戻り、登城道を上がります。最初にあったのは左手に「下田歌子」の歌碑と、右手に勉学所がありました。岩村町出身の下田歌子は女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、「実践女子学園」の基礎も築きました。女というだけで知新館へ入学できなかった反発心を持ちながら、この勉学所で励んでいたんでしょうね~

岩村城跡 登城道

岩村城跡 下田歌子歌碑

岩村城跡 勉学所




登城道で最初の看板は「藤坂」と書かれていました。
藤坂の名は岩村城を創築した加藤影兼の妻、重の井が紀州藤代村から持参した種から育てたと伝えられ、藤の大木があったのが由来。

岩村城跡 藤坂




続いてはあったのは「初門」です。最初の関門として通行を遮断するように「鉤の手(かぎのて)」に大きく曲げられています。

岩村城跡 初門




「一の門」は二層の櫓門で、左に多門櫓、右に石垣と土塀で固められ死角から敵が近づかれない工夫がされていたそうです。

岩村城跡 一の門




岩村城第二の門が「土岐門」です。美濃国の土岐氏を破ってその城門を奪い移築したのが伝承からの名前だそう。岩村の徳祥寺に山門として現存しています。
ここまで700m歩いてきました、ここから本丸まではまだ300m程あります。

岩村城跡 土岐門




大手入口前面の空堀に架かる橋を「畳橋」と言い、床板が畳のようにめくることからその名があります。

岩村城跡 畳橋




「追手門」は畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がり櫓門に入る枡形門で、脇に畳橋を見下ろす「三重櫓」が構えられていました。三重櫓は岩村城の天守に相当していたらしく、城下町からは正面に見えるように設計されていたそうです。

岩村城跡 追手門




「霧ヶ井」は鎌倉時代から今も絶えることなく湧きだしています。岩村城が霧ヶ城と言われる由縁となった井戸です。

岩村城跡 霧ヶ井①

岩村城跡 霧ヶ井②




登城道の途中にあります「八幡神社」は、中世の城主遠山氏の氏神で、始祖加藤景康を祀ります。現在は跡なのかな?(^^;)

岩村城跡 八幡神社




本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の石垣が「六段壁」です。元は高石垣だったそうですが、崩落を防ぐため補強の石垣を前面に積んだため今の形になったようです。

岩村城跡 六段壁①

岩村城跡 六段壁②




両側の石垣の上に多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門を「長局埋門」(ながつぼねうずみもん)と言うそうです。

岩村城跡 長局埋門




「埋門」は両側と奥の石垣の上にすっぽりとかぶさるように櫓が載せられ、石垣の間のクランクした通路には三つの扉が設けられていたそうです。

岩村城跡 埋門①

岩村城跡 埋門②

岩村城跡 埋門③




ようやく「本丸」に着きました。広々とした空間となっています。本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が石垣上に構えられ、東と北に長局が付属していました。内部には特に施設はなかったようで今と同じく広場だったようです。

岩村城跡 本丸全景

岩村城跡 本丸




慰霊碑と岩村城跡の説明板がありました。

岩村城跡 慰霊碑

「岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、標高717mに位置し、江戸諸藩の府城の中で最も高知にあり日本三大山城の一つである。
 城の創建は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景康が、文治元年(1185年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まると伝わる。景康の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以来遠山氏が代々居城し、東濃地方から信州の一部まで勢力下とした。
 戦国動乱の時代に入り、天正元年(1573年)武田信玄の臣秋山虎繁(信友)が岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田信長の軍に攻略されて、河尻秀隆が城主をなった。その後は森長可、森忠政、田村直正と、城主はめまぐるしく交代した。
 慶長五年(1600年)の関ケ原合戦以後は、大給松平本家の松平家乗が城主となり二代、丹羽氏五代のあと大給松平分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
 城郭は中世城郭を近代城郭へと修築し、本丸二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が設けられ、丸と曲輪は石垣や堀切をもって区画され、要所に櫓、堀、門が構えられた。
 山城の建造物は明治六年(1873年)の廃城令を受けて競売に付され、すべて取り壊された。」




山の木々であまりいい景色ではありませんが、本丸から見る岩村町市街です。

岩村城跡 眺望




本丸から埋門を戻り西側の通路を通り、本丸の駐車場に来ました。駐車場には案内図とノボリが掲げられていました。駐車場の先端には「出丸」もあり、南西の防衛をしていました。眺望は1段高い本丸の方が良かったです。

岩村城跡 案内図とノボリ

岩村城跡 出丸




帰りに最初の3枚目にあった「岩村山荘」にて御城印を頂きました(^^)/
岩村城跡


場所:岩村城跡


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