2020
04/13
月

城跡の一番近くにあるP1
駐車場に
車を停め、入口にあった看板を読みます。


苗木城跡は国指定の史跡となっているようです。築城は1526年で廃城が1871年だそうで、標高432mの頂上にあった山城になります。解説が下記のように書かれていました。
「苗木城は、中津川市内を東西に貫流する木曽川右岸に一段と高くそびえる城山に築かれていました。
木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあります。岩山の上で利用できる土地の確保が困難であったため、建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど、自然の地形を有効に生かして築かれた山城です。
大永年間(16世記前期)に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏がこの地に移り住みました。
その後戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われますが、関ヶ原の戦いに先立ち遠山友政が城を奪還し、以後江戸時代を通じ12代にわたり遠山氏が城主として治めました。」

苗木城跡が撮れる最初のビューポイントです。「かつての苗木城」の写真看板もありましたが、なんだかお城という感じがあまりしないです(^^;) 2018年には「絶景!山城ランキング」でNo.1にもなったほどの眺望が見込めるようです。
石畳の山道を抜けると、最初にありましたのは「風吹門跡」です。大手門とも呼ばれ、三の丸への出入り口でもあったようです。
山城ですが、他の平城と同じで、城の囲いに石垣が造られています。
城下から最初にあった「北門跡」です。ここから下は城下ですが、完全に木々の生い茂った山道です。
「大矢倉跡」です。この櫓の上に建物があり、攻撃と防御を担う前線基地があったんでしょうねぇ~
三の丸東側にある「駈(躯)門跡」から見える赤い橋は木曽川に架かっています。
「三の丸」から見た苗木城跡です、ここから山道を登ります。ちょうど「苗木城跡」と書かれた石碑の所が「大門跡」になります。そこから二の丸に入ります。
ちょっと上がった所に「綿蔵門跡」がありました。本丸へ上がる道を遮る形で建っており、午後4時以降は扉が閉められたそうです。
城内図からは「二の丸」にあたる場所です。柱を受けた束石がたくさん遺っています。
道がUターンした場所に「坂下門跡」がありました。読んで字の如く、坂道の下にあった門からそう呼ばれたようです。
「菱櫓門跡」です。説明板を読んでこなかったのでよくわかりませんが、名前からするに菱形の櫓があったと推察できます。
「千石井戸・本丸口門跡」です。千石井戸はこんな高い場所でも水が出たようです。本丸口門は本丸と二の丸の境の門になるようです。
横に長い建物であっただろう「武器蔵跡・具足蔵跡」です。
ようやく、天守があったであろう場所への正式な「玄関口門跡」になります。
玄関口門を過ぎると「本丸」です。ここに「本丸玄関跡」がありました。本丸玄関は天守より一段低い位置にありますので、天守に向かい階段を上がります。
上に出ると「苗木城址碑」があります、これは西向きの景色になります。2枚目は東向きで、雲がかかちゃって見えませんが、正面に恵那山があります。3枚目は東側から西を見ていますが、天守の北側なのでたぶんここが「千畳敷」だと思います。
「天守」からの景色になります。苗木城の天守は先程の写真にもありますが、2つの巨岩にまたがるように造られており、3層ありました。実際1階の床面積が6m×6m程しかなかったようで、かなり小さかったみたいです。
「馬洗岩」です。天守台南下にあり、周囲は45mもある自然石です。かつて苗木城が敵に攻められ、水の手を切られた時に、岩の上で馬を米で洗い水が豊富であるように欺いたことが由来らしいです。
下の玄関から見た「天守跡」と「大矢倉跡」になります。

御城印
場所:苗木城跡



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