2020
03/26
木
菅生神社を後にして、次は
車で北に2キロの場所にある『伊賀八幡宮』(いがはちまんぐう)に向かいました(^^)/

境内の右側にある
駐車場に
車を停め、
歩いて南側の入口に来ました。朱色に彩られた明神鳥居には「八幡宮」と書かれた扁額が掲げられています。



鳥居の右手には「伊賀八幡宮」と刻まれた社号碑に徳川葵の紋が光ります。
鳥居をくぐった所にあった看板には「岡崎観光文化百選」に選ばれた伊賀八幡宮の紹介がされていました。
控え柱がある両部鳥居の「二の鳥居」も朱色に塗られていますが、ちょっと剥げかけてて見た目が悪いです( ゚Д゚)
長~~い参道は舗装されており、沿道住居用に
車の通行もあるのかな?(*'ω'*)

境内南側にある川に架けられた「神橋」です。朱色の欄干がいい感じです。
橋を渡り堤防道路の際に燈篭と下に降りる石段がありました。樹木の隙間からは「隋神門」が伺えます。
石製の明神鳥居である「三の鳥居」は国の重要文化財に指定されています。
蓮池に架かる石製の「神橋」は寛永十三年の作で、国の重要文化財に指定されており、現在は封鎖されて渡ることはできません。上橋の先に「隋神門」です。
蓮の花が綺麗な夏に来ると、また違った景色になっていたでしょうねぇ(;^ω^)
国の重要文化財に指定されている、檜皮葺入母屋造りの楼門「隋神門」です。入口部の屋根は唐破風付きとなっています。
伊賀八幡宮の略記がありました。
「当伊賀八幡宮は文明二年(1470年)に松平四代親忠公が伊賀国(三重県)から下井田の地に移しまつったのがはじまりである。
その後、下井田を伊賀というようになった。それから、松平家(徳川家の祖)徳川家代々の祈願所となったのである。
八代広忠公は、天文四年十二月織田信秀が岡崎城を攻めとろうとしたとき、八幡宮に祈願して井田ヶ原に迎えうった。そのとき先頭に馬に乗った武者が現われ敵陣めがけて白羽の矢を放った。すると八幡宮の森の上から黒雲がわき、あらしをよんで、白羽の神矢が雨のように敵陣にとんだ。たちまち、三万余の敵は敗退した。広忠公は、みずからその神矢を拾って、八幡宮に奉納した。家康公も、尊敬の念きわめて厚く、出陣にはかならず祈願した。関ヶ原の戦や大阪の陣には神殿が鳴動し、鳥居が移動したりするなどふしぎなことが起った。また、桶狭間の戦に利なく軍を引かそうとしたとき矢作川に八幡宮の神使の鹿が現われて、家康公は無事に大樹寺にはいることができた。こうして、八幡宮は松平家徳川家の守護神として、尊敬をあつめていたのである。
社殿の造営はたびたび行なわれ広忠公の天文年間、家康公の永禄年間、家光公の寛永年間の造築がそのおもなものである。
現在の社殿の大部分は寛永十三年造営である。昭和八年になって、本殿、幣殿、拝殿、透塀、御供所、随神門、石橋、石鳥居、ならびに棟札などが国宝に指定された(現在も国の重要文化財)。社殿は、江戸初期の建築の代表で、江戸時代の神社配置形式をよく残しているのである。」
伊賀八幡宮の鳥瞰図(ちょうかんず)がありました。鳥瞰図とは、鳥が高いところから地上を見おろすように、高い視点から見おろしたように描いた図のことを言います。
随神門の入口上にある扁額には「八幡宮」の文字、梁上の蛙股は色鮮やかな龍の彫刻が施されています。
境内に入ると、右手に緑青となった銅葺き屋根と趣のある手水舎があります。水盤には徳川葵の紋が刻まれていました。
随神門を入った正面には、拝殿の手前にある「拝所」がありました。拝殿までは入れませんので、ここでお詣りをさせていただきます。
檜皮葺き入母屋造り、向拝上唐破風付きの拝殿です。こちらも国の重要文化財に指定されています。唐破風下の懸魚や鬼瓦などいたるところに徳川葵の紋が伺えます。
御祭神は「応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現」と略記に書かれていました。
国歌君が代に謳われている「さざれ石」です。ボクの地元岐阜県は春日地区が主要な産地となっているので、小さい頃から良く目にしてきました(^^)/
境内には境内社が多くあります。1枚目が境内東前にある「上総社」、2枚目の境内西側手前が「牟久津社」、右側が「御供所」で社殿以外で国の重要文化財になっている建築物になります。
境内の西側に「授与所」がありましたので、ここで御朱印を書いていただきました。
境内の西南角から拝殿側を見ています。拝殿の後ろに弊殿と本殿がありますが、中には入れませんので望遠にてわずかに屋根を
写真に収めることができました(^^;)

御朱印です。
場所:伊賀八幡宮



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