2020
02/22
土
大徳院に続いては、東へ2㎞程の所に流れる「五条川」の堤防際に鎮座する
『萱津神社』(かやづじんじゃ)に伺いました(^^)/
堤防を下に降りると広い
駐車場がありました。奥に見えるビル1階に社務所があります。

堤防側には「香の物発祥の地」と書かれた石碑と、漬物祖神「鹿屋野比売神」(かやぬひめのかみ)の像がありました。この漬物祖神がここ萱津神社の御祭神になります。
旧鎌倉街道の堤防上にある東向きの入口です。木製の伊勢鳥居かな?(^^;) 正月でしたので、柱には門松が置かれていました。
「阿波手の杜 萱津神社」と刻まれた社号標があります。阿波手の杜(あわでのもり)とは、日本武尊が休んだ所と言われ、この鎮守の森に萱津神社があります。
鳥居をくぐると石段を下に降ります。突き当たりが社殿になります。
境内の手前に反り橋(太鼓橋)があります。そこを渡って境内に入ります。
社殿(拝殿)正面です。銅葺き入母屋造りの大屋根に切妻造りの向拝が付いた社殿です。本殿は
撮り忘れましたが、流造りとなっていました。

境内右手にある手水舎にて、身を清めて参拝に進みます。
左手には躍動感のある神馬がありました。めちゃくちゃ木が邪魔ですが…(^^;)
萱津神社の由緒が書かれていました。
「尾張国神明帳に従三位萱津天神と所載、貞治本国帳に従一位上萱津天神と記す。昔、草ノ社(かやのやしろ)または種の社(くさのやしろ)と称し和歌で知られる阿波手の杜(あわでのもり)に神鎮まりす古社であります。
太古、民族が肥沃な地を求め移り住み、この地に野を司る鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)を奉祀したのが始まりとされる。
当時の住居は茅・草葺きのもので有ったことから建物の神と崇敬を得ると共に全国唯一の漬物の神また縁結びの神として広くご崇敬を得ている。
日本武尊御東征の途参拝あり又代々の国司・国守の崇敬篤く、室町時代初期には国守萱津左京太夫頼益公が神田六十貫文を寄進し元和年間には時の藩主徳川義直公より香の物領として石高五石八斗余の農地の寄進を受け明治初年まで続いた。昭和に入り社殿のご造営、境内の整備を行い終戦時には県社扱いの神社に認められた。
今日の本殿は昭和二十二年に、拝殿は昭和四十八年に、会館は平成十一年にそれぞれご造営がなされたものである。」
拝殿です。入口上には木製の扁額に「萱津神社」と書かれています。中には入れませんでしたので、賽銭箱のある向拝にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
古銭を模った碑には摂社の名が入っています。碑の下には"萱津の里"と書かれた説明が刻まれていました。
「鎌倉時代、鎌倉街道萱津宿場として栄えていた頃より萱津の里には萱津神社を始め銭神社、金山社、八剱社、白髭社が里内各所に祀られており、その名が今も地名、住宅地として残されています。
江戸時代、天保12年頃より萱津神社内に銭神社も末社として祀られています。
奈良時代、和銅元年(708年)日本で始めて銅銭が出来、蓄銭叙位令発布され日本銭に統一される。日本通貨発祥地埼玉県秩父の聖神社に銭神様が祀られています。
希少な当地の銭神社は、ご縁と金運向上を結ぶ貴重なお社であります。」
銅板葺き入母屋造りの建物は、熱田神宮境内にあった建物を、昭和10年無償下附され復元再建されたもので、足利九代将軍義尚公の時代(長享年中)の造営だそうです。
先程の建物奥の建物も熱田神宮下附の附属建物で、同じく昭和10年に無償下附されました。徳川五代将軍綱吉公が寄進したものだそうです。現在は参集所となっているようです。
参集所の奥には、右から漬物発祥の地として茅葺きの「香の物殿」、その隣に「八剱社」、古銭を模った碑の後ろに「白髭社」、左の祠は鎮護国家・英霊の「照霊社」になります。

御朱印
場所:萱津神社
よければポチッとお願いします(^^)/

この記事と関連する記事
AFTER「[愛知県] 犬伝説の残る聖なる社 伊奴神社」
BEFORE「[愛知県] 甚目寺の恵比寿大黒天を祀る 大徳院」
COMMENT