2020
02/16
日
甚目寺観音に続いて、かつてはその甚目寺内の鎮守社であった『漆部神社』(ぬりべじんじゃ)になります(^^)/
まずは、南側の入口前からの
一枚です。この右側に甚目寺観音があります。石製の明神鳥居には漆部神社と刻まれた扁額も掲げられていました。

鳥居の右手には「延喜式内 漆部神社」と刻まれた社号碑がありました。
鳥居をくぐって、すぐ左側に手水舎がありましたので、身を清めお詣りに進みます。
手水舎の横には社務所があります。左側には祈祷受付・授与所が付いています。唐破風の玄関には「鳳凰殿」と書かれた札がありますが、社務所の名前なのかな??
ちょうど社務所の真正面が、甚目寺観音から入ることができる東側の入口となっております。社号碑はありませんが、鳥居はあります。代わりに看板がありました。
東口付近にありました看板に、御祭神は漆部連祖神「三見宿禰命」(みつみのすくねのみこと)とありました。漆器・塗料に関する商工芸の守護神とあります。
また、いただいた漆部神社由緒によりますと、
「当社の名が世に知られるに至ったのは、文献上では延喜式神名帳を以て、所見とする。
延喜式神名帳というのは、平安朝の中期、醍醐天皇の延長五年(927年)に撰進されたものであるから、今日から一千九十年程前のものである。それに神社名の載っているということは、これが一千年以上の古社であることを示すもので、当社も従って一千九十余年以前には、既に存在していたと言える。延喜式の制度に従えば、当社は当時、国幣の小社とされ、尾張国司から幣帛を奉られる名社とされていた。
鎌倉時代には尾張国神名帳に「従三位漆部天神」と称され、神格の高い神として尊崇され、引き続いて、同国司の幣帛を受けた。
然るに南北朝時代以降、戦国時代にかけて、当地方は戦乱の巷となり、このとき当社も戦火にかかり、社名さへも忘れられるに至った。そのため、室町時代以降は、八大明神社と称され、その維持の計られたことは、現在も当社に残る明応七年(1498年)八月二十三日の墨書銘によって、明らかである。その後のことは、元和六年(1620年)五月二十五日の棟札が残っているので、このとき社殿の造替が行われたことがわかり、その後引きつゞく修造を経て、今日に至っている。
江戸時代には尾張藩は、当社に二十石の祭祀料を寄進して崇敬し、明治維新後は、同四十年十月二十六日、指定郷社の社格が与えられた。氏子は祖先以来の氏神として、厚く奉斎、その維持に当っている。昭和三十二年十月二十一日に至り、その社名を旧来の漆部神社に復した。」とありました。
参道は広めで境内には木が生い茂り、とても雰囲気のよい場所となっています。
参道途中、境内に入る手前にありました反り橋には「きよめはし」と書かれていますが、渡ることはできません。
本堂前の境内手前には、尾張地方に良く見られる「蕃塀」(ばんぺい)がありました。格子の上には龍の彫刻、下の真ん中は虎かな?両サイドは何だろう???狛犬っぽいんだけど、想像上の生物かなぁ(^^;)
本瓦葺き切妻造り唐破風向拝付きで、両側の一段低い位置に切妻屋根が付いて複層の造りとなっている社殿です。甚目寺本堂と同じで鉄筋コンクリート造ですので新しい感じです。
本堂の右手にありました「神馬」です。
さらにその右隣には境内社の「日吉社」がありました。
社殿(拝殿)を右横斜めから見ています。「漆部神社」と書かれた大きな扁額が掲げられている向拝にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
御朱印
場所:漆部神社



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