2020
02/07
金
前日の石川県山中温泉旅行からの帰り道、福井県坂井市丸岡町にある『丸岡城』(まるおかじょう)に寄ってみました(^^)/ 北側に売店も併設された大きな
駐車場に
車を停めます。中央奥の方に天守の屋根が見えました。


入口前に「丸岡城マップ」がありました。城内には天守の他に「丸岡歴史民俗資料館」もあるようです。
この石段を上って行きます。城内はとても綺麗に整備されていました。
途中に券売所がありましたので、大人一人450円で入場券を購入します。歴史民俗資料館も見られるのでお得です(^^)/
券売所の前に「丸岡城八幡神社」がありました。ここは丸岡城内鎮守社として築城以来この地で奉斉してきているようです。
天守閣のある高台の平地に出ました。由緒には、
「天正三年(1575)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在の東方約4km)を攻略した。信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。
天正四年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城となる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本多成重以下四代の居城となったが、元禄八年五月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、八代にわたって有馬家の領有することとなった。
平章館(現在の平章小学校)の創設者、有馬誉純(五代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。
明治三年三月、版籍奉還後、同四年九月官有となり、さらに民有に移り、明治三十四年八月町有となる。その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却または譲渡され、現在わずかに天守閣とその附近の石垣の小部分を残存するだけとなった。
昭和九年一月三十日、国宝に指定されたが、昭和二十三年六月二十八日、福井大震災により倒壊、昭和二十五年八月二十九日、国の重要文化財に指定され、昭和二十六年十二月復元に着手、用材は八十%近く古材を使用し、昭和三十年三月三十日修理復元され現在に至る。
本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。構築法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、これは我が国城郭建築史上、現在の天守閣の中で、最古の様式のものである。」と、書かれていました。
「お静慰霊碑」と、書いてあります。
伝説「人柱お静」では
「これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(1576)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。
お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、"お静の涙雨"と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。」
なんとも切ない話が書かれていました。。。(-_-)
昭和23年6月の福井大震災時に落下した、「石製のしゃちほこ」です。割としっかり残ってるのにビックリですが、資料館とかに展示しなくて良いのかなぁ??(^^;)
先程の由緒にも書かれていましたが、丸岡城は国の重要文化財に指定されています。
石垣の高さを上がる石段先に入口がありますので、そこから天守閣内に入ります。
最初の
写真が1階で丸岡城の年表などが掲示されています。木製の階段を上がり、2階は展望フロアとなります。

東西南北わかりませんが、坂井市が一望できます。良い景色です(^_^)v
笏谷石(しゃくだにいし)でできていると書かれていました。
石瓦の屋根はとても珍しいです。
いろんな角度の方向から見た丸岡城天守閣です。見る角度で趣がありますねぇ!
城の東側には綺麗に整備された日本庭園(霞ヶ城公園内)もありました。
庭園の前にある「丸岡歴史民俗資料館」です。丸岡城築城400年を記念して開館したそうです。常設展示室には本多氏・有馬氏歴代城主ゆかりの武具・調度品・掛軸・古文書などの品々を展示しています。
先日、「越前大野城」に伺った時に、このチラシを見つけての今回の訪問になりました。「福井三名城お城巡り」の一つとなっており、最初の券売所で登城印をいただいてきました~(^^)/
登城印です。
場所:丸岡城



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