2019
12/30
月
今回は久しぶりに地元である岐阜県の探訪に行きました。
まずは、前回に続いてお城になりますが、『美濃金山城跡』(みのかねやまじょうあと)へ行ってきました(^^)/ いつものように素晴らしい建物は一切ありませんのであしからず…(^^;)
木曽川沿いに可児市兼山へ行く分かれ道の所に大きな鳥居のようなものがありました。「森蘭丸生誕の地 兼山」と書かれた垂れ幕が掲げられていました。織田信長に仕えた森蘭丸も城主をしていたそうです。
城跡のある西側、麓に近い所に第1駐車場
がありましたので、
車を駐車して
歩いて登って行きます。
駐車場には看板もありました。ここから山道の「大手道」を行くと「蘭丸広場」を経由して頂上まで行けそうですが、あえて
車の通れる道路から登っていきます。





第2駐車場
を過ぎたところで、「冠木門」(かぶきもん)がありました。どうやら開園時間があり、8:00~17:00までで、時間外は門が閉まるようです。

道路から外れますが、「堀切の小径」と名付けられた遊歩道があったのでショートカットして登ります。
堀切の小径を抜けて再び道路を
歩き、ようやく城跡に登る分岐点に来ました。ここからは登山道になります。杖も用意されていますので、登山道が苦手な方も安心です。ちなみにノボリ旗に描かれている家紋は、信長の家臣・森家の家紋で「鶴丸紋」になります。

最初にあったのは、「三の丸門跡」です。看板の近くにある平たい石が礎石のようです。
「破城の痕跡」とは、城を故意に壊して再び城が築かれないようにすることを波城(はじょう)と言い、美濃金山城跡には多くの場所に壊された石垣が残っています。

この先危険と書かれた場所は「水の手」と書かれ、断崖上にある年中湧水する城の飲料水補給場だったそうです。又この場所は「虎口」で城の出入口だったようです。
虎口を過ぎると「古城山払下記念碑」と書かれた石碑がありました。古城山はこの山のことで、江戸時代には立入が禁止されていましたが、明治以降は国有林となり、昭和28年に住民の念願により払い下げを受けました。長年利用できなかったことが、多くの遺構を残すことになったようです。
「二の丸跡」です。
「大手枡形」です。枡形は攻め寄せてきた敵の進む勢いを鈍らせるために設けた正方形の平地のようです。
「天守台西南隅石」長方形の角石を交互に組合せ算木積にしたもので、これにより石垣がいっそう堅固になっているようです。
ようやく頂上(標高273m)の平地に着きました。ここに金山城が築城されていたようです。美濃金山城の歴史が書かれた看板では、築城時は「鳥ヶ峰城」と称したようです。築城は天文六年(1537)で斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城しました。
「史跡 金山城址」と書かれた石碑が立っていました。1967年に岐阜県指定史跡に指定され、2013年に国の史跡に指定されました。兼山の景色が美しいです。
天守より一段下がった位置にあったのは「本丸虎口」です。2枚目は「本丸跡」です。矢印の部分が、本丸御殿の礎石です。3枚目は天守の石垣かな?
帰りに、登山道途中にある「蘭丸ふる里の森」に寄っていきました。ここの事務所で登城印のことを聞きましたら、麓にある「可児市戦国山城ミュージアム」にあるとのこと。。。
急いで行き、「可児市戦国山城ミュージアム」受付にて300円で購入できました(^^)/
場所:美濃金山城



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