2019
12/09
月
高牟神社に続いては、北へ500mの所にありました『物部神社』(もののべじんじゃ)に行きました(^^)/
駅前の桜通りに面した神社はまるで異空間に入り込んだようでした。南側の入口には「物部神社」と書かれた扁額がある石製の鳥居があります。

右手には「式内 物部神社」と刻まれた社号碑があります。
入口を入ってすぐの所に手水舎がありましたので身を清めます。
手水舎の正面(入口からは左に曲がる)参道の先には、社殿が突き当りにあります。
参道右手には天神社など境内社が幾つかありました。
参道左側に、物部神社の略縁起がありました。
「平安時代初期の宮中の年中行事や制度などを記した『延喜式』に載る「愛智郡物部神社」にあたるとされる格式の高い神社である。
物部氏の祖・宇摩志摩遲命を祭神とする。大石を御神体とするところから、石神神社、石神堂などともいう。社伝によれば、この大石は神武天皇がこの地を平定した時に見つけた石で、これを国の鎮めとしたといわれている。
元禄年中(1688~1704)三代藩主徳川綱誠が荒廃した社殿を修復している。」
左奥の白竜社への参道途中に、物部神社の由緒記が石板に刻まれていました。
「この宮は延喜式神名帳帳(905)尾張愛知郡の部に物部神社、御祭神、宇摩志麻遅命と記帳され、また国内神名帳(1707)に従三位物部天神と記されています。(天神とは天津神と申し上げる称号です)
尾張府誌には神霊は一塊の大石で神武天皇が当国の凶魁を打たれた時、此の石を国の鎮めとなされたため要石称され、この古事によって石神の名が起こりこの様な大石は世に根なし石とも伝えられ(全国には水戸、鹿島の三ヶ所に存するという)
元禄年間(1688-1703)藩主綱誠(3代)は社殿の重修、遷宮されて俗に石神堂、山神と称して近くの人々はもとより遠くの人々まで厚く信仰されています。」
境内社の「物部白竜社」です。手前の屋根付き鳥居は傾いて倒れそうです。(^^;
社殿(拝殿)です。切妻造りの妻側向拝付きです。御祭神は宇摩志摩遲命(うましまじのみこと)となります。略縁起にありましたが、大石を神体とすることから「石神神社」(いしがみじんじゃ)、「石神堂」(いしがみどう)と呼ばれています。
拝殿の入口上には金縁の扁額に物部神社と書かれています。お賽銭箱の前にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
西側の入口へ進む方に社務所がありました。
西側入り口は桜通りの交差点歩道に面しており、広々とした空間がありました。
御朱印は書置きでした。
場所:物部神社



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