2019
09/25
水
方広寺から更に北へ1km程の場所にあったのは『禅居庵』(ぜんきょあん)です。禅居庵は次に伺う臨済宗建仁寺派大本山建仁寺の塔頭になります。
建仁寺の西南角にあり、最初は建仁寺のお堂かと思って入りました(^^;)
南側に面した山門です。小さいですが、唐門(唐破風)のためとても豪華な造りになっています。入口右側には「建仁寺禅居庵 開運摩利支尊天」と刻まれた寺号標があります。
山門くぐって境内に入ると、すぐ正面に「摩利支天堂」があります。正面向拝は銅葺き唐破風造りとなっており、こちらも豪華さを感じます。右側には何ともかわいい狛犬ならぬ、狛亥(いのしし)に出迎えてもらいました。
何故、亥(いのしし)かと言うと、禅居庵で祀られている「摩利支天」の眷属が亥(いのしし)だからだそうです。稲荷に狐みたいな感じですかね~(^^)/
右手には、手水の水盤と休憩場が一緒になった大きな手水舎がありました。何故こんなに大きいのかと言うと、建仁寺へ向かう「ゆずりあいの道」と言う通路が右手にあり、そこへ行くために幅が広くなっているのでした。
写真では小さいですが、亥(いのしし)の口が吐水口になっていて思わず笑っちゃいました(^^;)

向拝の横から見た「摩利支天堂」です。本瓦葺き入母屋造りで、建物は単層になります。一見2階建てのように見えますが、下の屋根は寺院によくある裳階(もこし)になります。(付庇のようなものです。)御本尊は聖観世音菩薩ですが、秘仏である摩利支天を祀っています。
向拝の扁額を
写してきたつもりでしたが…(^_-) たぶん「摩利支尊天」って書いてあるのかな?。。。(^^;) この場所でお参りをさせていただきました<(_ _)>

禅居庵については、
「この寺は臨済宗建仁寺派の塔頭で禅居庵(ぜんきょあん)と申します。当庵のご開山大鑑清拙正澄禅師(だいかんせいせつしょうちょう)(1274~1339)は中国福建省福州のお生まれで月潭紹円禅師に就いて出家後、浄慈寺、霊隠寺、育王寺など諸方を辺参され破庵派の愚極智慧禅師の法を嗣がれます。
このころ我が国からも多くの僧が禅の正法を求めて海を渡っており嘉暦元年(1326)禅師の名声を聞いた「海東の壇信が師を日本へ招請した」と伝えられています。翌年正月上京された禅師は、北条高時に迎えられて鎌倉へ下り、建長寺、浄智寺、円覚寺に住山されたあと、建長寺山内に禅居庵を構えて退隠されます。しかし元弘三年(1333)には京都建仁寺に第二十三代住持として迎えられます。やがて三年を経て南禅寺に住されますが、その間、小笠原貞宗の帰依を得て信州伊那に開善寺を創建し開山になっておられます。南禅寺住持を辞し建仁寺山内禅居庵に退隠された禅師は暦応二年(1339)正月十七日、この寺において遷化されます。六十六歳でした。その日は奇しくも、禅師が尊崇する叢林での規則「百丈清規」を著した唐の禅僧、百丈懐海禅師の正忌日に当たりました。」
向拝西側にあった小屋下には、たくさんのミニ猪に囲まれた猪の銅像がありました。
東西の参道です。上には「延命地蔵大菩薩」と書かれた提灯がぶら下げられています。地蔵尊の縁日でもあるのかな?
西へ向かう参道北側にその地蔵堂と思われる建物がありました。
手水舎の北側(摩利支天堂の東側)にありました、授与所?(売店のような)がありましたので、御朱印を書いていただきました。
ここにはその他に、猪に因んだものがたくさんありました。
これが、手水舎を大きくしていた「ゆずりあいの道」で、狭い通路を通って建仁寺境内に直通しています。次回は建仁寺を紹介しま~す(^^)/
摩利支天と書かれた御朱印
場所:建仁寺塔頭 禅居庵



よければポチッとお願いします(^^)/

この記事と関連する記事
AFTER「[京都府] 京都最古の禅寺 建仁寺」
BEFORE「[京都府] 日本三大名鐘の一つがある 方広寺」
COMMENT