2019
09/23
月
豊国神社に続いては、北側に隣接している『方広寺』(ほうこうじ)になります(^^)/
一旦豊国神社の鳥居から外の
歩道に出て、参道入口に来ました。入口右側には「傳教大師御作 豊太閤護持 大国尊天」と刻まれた石碑があります。方広寺には最澄(伝教大師)が製作したとされる像が、大黒天堂に安置されています。

入口の左側には「大佛殿石垣」と刻まれた石碑も確認できました。方広寺は、豊臣秀吉が奈良東大寺以上の大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営をしましたが、数々の地震や火災によって倒壊・焼失しています。

右に本堂、左は庫裡(住職の住居かな?)です。
本堂の前(南側)には鐘楼堂があります。鐘楼堂の右側、高木のある場所が、先程伺った「豊国神社」になります。
鐘楼堂の東側に井戸のある手水舎がありました。水は出ていませんでした…(^^;)
手水舎の前から見た本堂です。桟瓦葺き入母屋造りと、まだ新しい感じがします。御本尊は盧舎那仏で、豊臣秀吉によって文禄四年(1595)に創建されました。
方広寺の由緒は、
「天正十四年(1586)に豊臣秀吉が奈良・東大寺に倣い大仏造営を決定し、文禄四年(1595)に大仏殿がほぼ完成しました。桁行82m梁間57m全高50mの大仏殿の中に、高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗大仏坐像が安置されました。慶長元年(1596)の大地震により、開眼供養前の大仏と築地が倒壊してしまいました。
一時、信濃国善光寺の阿弥陀如来が安置されたが、秀吉の容態悪化により返還されている。
秀吉の死後、豊臣秀頼が遺志を継ぎ、片桐且元を中心に大仏の再建(二代目)を行うも、慶長七年(1602)、大仏鋳造中み出火し大仏殿毎炎上した。
その後、慶長十五年(1610)、大仏および大仏殿の再建が始まり、同十七年(1612)銅製の大仏(三代目)と大仏殿が完成した。また慶長十九年(1614)に梵鐘が完成している。
寛文二年(1662)、地震でこの大仏も倒壊、寛文七年(1667)、四代目の大仏が木造で造り直された。寛政十年(1798)、大仏殿に落雷し本堂・楼門が焼け、木造の大仏も焼失した。
享和元年(1801)、旧大仏を1/10に縮小した木像の盧舎那仏(大日如来)が造られ(五代目)、現在も本尊として本堂に安置されている。
平成十二年(2000)、発掘調査が行われ、方広寺大仏殿の基壇と台座が明らかになった。現在は、大仏殿跡の遺構は、地下に保存され緑地公園となっている。」
本堂の東側には、本堂と渡り廊下で繋げられ、銅葺き唐破風の向拝を付いた「大黒天堂」です。ここに大黒天が祀られています。
大黒天堂の前には、入口と同じく「傳教大師御作 豊太閤護持 大国尊天」と刻まれた石碑がありました。
本堂真ん中にある埋め込まれた賽銭箱の前にて、お参りをさせていただきました<(_ _)> 左側の扁額は「感應」と書かれているようです。調べましたら「心が(物事にふれて)感じこたえること。信心が神仏に通じて、その加護があること。」だそうです。(^^)/
「日本三大名鐘」の大鐘の一つに数えられる方広寺の梵鐘です。梵鐘は慶長十九年(1614)、京都三条釜座の名護屋三唱により鋳造されており、大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7tあるそうです。日本三大名鐘には同じ京都の「知恩院」、奈良の東大寺とされているようです。確かに東大寺の梵鐘も大きかったです~(≧∇≦)ノ
梵鐘は昭和四十三年(1968)に重要文化財に指定されています。梵鐘だけでなく、天女などが書かれた色付きの天井絵も素晴らしいと思います。
突然の訪問でしたが、快く御朱印を書いていただきました。
場所:方広寺



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