2019
09/21
土
三十三間堂の拝観を終え、次は『豊国神社』(とよくにじんじゃ)に行きました(^^)/ 三十三間堂からは北へ300mとほど近く、「京都国立博物館」の隣にありました。前面道路の反対側の歩道から鳥居と社号碑が見えました。
社号標には「豊国神社」と刻まれています。以前伺った滋賀県長浜市の「豊国神社」は「ほうこくじんじゃ」と言いましたが、こちらは「とよくにじんじゃ」です。まだ行ってませんが、愛知県名古屋市にあるのは「とよくにじんじゃ」だそうです。どこも祀られているのは豊臣秀吉公になります。
階段を上がった上に石製の明神鳥居に「豊国大明神」(とよくにだいみょうじん)と書かれた銅製の扁額が掲げられていました。豊国大明神とはもちろん豊臣秀吉公になります。
鳥居をくぐり中に入って左手に、檜皮葺き入母屋造りの手水舎がありました。水盤には豊臣家の桐紋が彫られておりました。
石畳の参道横に、ロープが張られた立入禁止柵の中に、陶製の豊臣秀吉像がありました。阪神大震災で台座が壊れて以来、長く蔵の中で保管されてきたそうですが、令和に合わせ5月1日から境内で再び公開されているようです。見られてラッキーでした(^^)/
国宝「豊国神社 唐門」です。檜皮葺き入母屋造りに唐破風の軒が付いている向唐門です。正面の桐紋が3つ入った虹梁の上にある「蛙股」(かえるまた)は、太閤桐が彫られており、秀吉が天皇から拝領したものだそうです。
唐門の前に豊国神社の縁起が書かれた札がありました。
「豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
慶長三年(1598)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(1604)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治十三年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(1898)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。」
と書かれております。
唐門の扁額にも「豊国大明神」と書かれています。鶴の彫刻でしょうか?笹と松の彫刻に、飾り付けられた金細工がとても豪華だとわかります。
唐門から中を
撮影しました。中央にあるのは拝殿です。こちらも檜皮葺き入母屋造りとなっており、凜とした佇まいが美しいです。奥にちょっと見えるのが本殿ですが様式まではわかりませんでした。

唐門前にある「瓢箪(ひょうたん)絵馬」です。豊臣秀吉は合戦の馬印として千成瓢箪を使用したことに因んで、瓢箪の形に切り抜いた絵馬や瓢箪をかたどった形のお守りもあります。秀吉の出世に因み、立身出世の祈願を絵馬に託す人が多いようです。
敷地南側にありました社務所にて御朱印をいただいて参りました。
国宝三唐門の一つを見ましたので、後の二つ(西本願寺と大徳寺)もいずれ訪れてみたいです。国宝はやっぱり素晴らしいです。
御朱印「壽比南山・福如東海」
中国語の漢詩「福如東海長流水 寿比南山不老松」を短かくした形で、「福は東海への水のように止らず流れ、寿は南山の松のように老いない。」という意味だそう。真ん中に「関白」の文字もあります。
場所:豊国神社(京都市)



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