2019
09/11
水
東寺を後にして、次に行くのは九条通りを東に2.5kmの場所にある『東福寺』(とうふくじ)になります。京都市東山区本町にある当寺は臨済宗東福寺派大本山の寺院になります。
九条通りの東福寺信号交差点にある巨大な寺号標です。「大本山 東福寺」と刻まれています。ここから、参道を通って境内まで向かいます。山号は慧日山(えにちさん)で京都五山の一つになります。
途中、最初の交差点をちょっと西に戻った所に「東福寺北大門」と「東大寺仁王門」がありました。
参道途中には「大本山東福寺 名勝通天橋道」と刻まれた石碑があります。
参道途中に架かっている木造の「臥雲橋」(がうんきょう)です。東福寺の渓谷に架けれた「東福寺三名橋」の一つになります。
「臥雲橋」の橋の上からの景色です。東福寺の通天橋が見えます。
秋の紅葉時期は絶景だそうです。
東福寺のホームページによりますと国指定重要文化財になっている「東福寺日下門」です。ここから境内に入りました。
日下門を入って右手に「東福寺禅堂」がありました。貞和三年(1347)再建。本瓦葺き切妻造りで裳階付きの平屋建て建物で、国の重要文化財に指定されています。入口には禅堂の扁額が掲げられています。
境内の一番南にある建造物の「山門」(国宝)です。応永三十二年(1425)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のものだそうです。五間三戸の二重門で入母屋造りとなります。
山門南側にある「思遠池」(しおんち)に咲く蓮の花が、国宝の山門を一層優美なものにしています。「妙雲閣」(みょううんかく)と書かれた扁額があり、構造的には、組物がさし肘木で形成されていることで天竺様(大仏様)ですが、柱間においては梁の上に詰組が置かれており、唐様(禅宗様)が折衷されています。
続いては、山門の北側に位置する「本堂(仏殿)」です。明治十四年(1881)に仏殿と法堂が焼失し、昭和九年(1934)に再建されました。本瓦葺き重層(平屋建て)の入母屋造りになります。本尊の釈迦三尊像です。
東福寺縁起
「摂政九條道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。嘉禎二年(1236)より建長七年(1255)まで実に十九年を費やして完成しました。
工事半ばの寛元元年(1243)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ、まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが、元応元年(1319)、建武元年(1334)、延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。
延元元年八月の被災後四ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和三年(1346)六月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ、延元の火災以降実に二十余年を経て、再び偉観を誇ることになりました。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていましたから、再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。
仏殿本尊の釈迦仏像は15m、左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで、新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え、兵火を受けることなく明治に至りました。
明治十四年十二月に、惜しくも仏殿・法堂(はっとう)、方丈、庫裡を焼失しました。その後、大正六年(1917)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和九年(1934)に落成。明治二十三年(1890)に方丈、同四十三(1910)年に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。また、開山国師の頂相、画聖兆殿司(ちょうでんす、明兆)筆の禅画など、鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっています。」
~ホームページより~
本堂に掲げられている扁額は「毘盧宝殿」(びるほうでん)と読むのかな?(^^;)
本堂(仏殿)には、本尊の釈迦如来立像、脇侍の摩訶迦葉尊者・阿南尊者立像、四天王像が安置されていました。(入口の格子扉の隙間から撮らせていただきました(^^;))
本日はここまで、次回後半をお伝えしま~す。
初めて御朱印のない回ですが、次回までお待ちくださ~い(^^)/
場所:東福寺



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