2019
08/30
金
駅前商店街の諏訪神社に続いては、
駅西に鎮座する『鵜森神社』(うのもりじんじゃ)に
歩いて行きました(^^)/ まずは、T字路に東向きに鳥居が立つ入口です。交差点なのでカーブミラーが2つに横断歩道もあります。駅前ですが、浜田城址として公園となっていることから緑溢れる高木に覆われています。小さくて見えにくいですが、左の燈籠の右側に「浜田城址」の石碑があります。


境内参道には、もうすぐお盆ですので提灯掛けの枠があちこちに立てられていました。
一の鳥居をくぐった右側に「鵜森神社」と刻まれた社号碑がありました。
左側には国指定重要文化財「十六間四方白星兜鉢」と浜田城跡の説明が書かれていました。
「浜田城は、室町時代の文明2年(1470)に田原孫太郎景信の三男田原美作守忠秀が築いたものである。その後、藤綱、元綱らがこの地を領したが、安土桃山時代の天正3年(1575)に織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城したという。」
先程の社号碑を右へ突き当たりに社務所があります。
境内参道の左手に、手水舎がありましたので身を清めてお詣りに進みます。
入母屋造りが多い中、珍しく切妻造りに唐破風の向拝付きの拝殿です。平成二年に社殿を再建されたようでまだ新しいです。
御祭神は、天照大御神・建速須佐之男命・菅原道真公と浜田家(城主)四代となっています。
拝殿の右側に境内社の「田原稲荷大明神」がありました。
稲荷は千本鳥居が美しいですねぇ♪
絵馬掛けです。国の重文である「兜鉢」の絵が描かれた絵馬になります。
理由はわかりませんでしたが、境内の南側に「皇大神宮遥拝所」がありました。
社殿の左側には、左に「鵜森神社資料館」があり、あとの二つの黒い建物は何でしょうか?神輿庫とか宝物庫あたりのように思いますが…
左側からの社殿(拝殿)です。本殿は
撮影をし忘れました(^^;)

鵜森神社の沿革は
「 天正三年(1575)六月六日、浜田城主田原遠江守元綱(たはらとおとうみのかみもとつな)は織田信長の武将“瀧川一益”との戦いに敗れ浜田城は落城した。落城した浜田城は、その後織田の家臣(瀧川一益、織田信雄の家臣瀧川雄利)が一時入城して修築したとされている。
落城寸前に息子“与右衛門重綱”は元綱の命で脱出して難を逃れ、その後、皮肉にも織田信雄に仕え、天正十二年(1584)秀吉が信雄と対立した美濃加賀野井城の戦いで討ち死にし、田原家は滅亡した。更に、秀吉は浜田城に立てこもった瀧川雄利を攻め、浜田城は完全に落城した。その後、城主田原家の旧臣達(注-1)がこの城跡に、慶長以後万治以前(1596~1658)の間に鵜森大明神を創立し、同家の遠祖である田原藤太秀郷及び初代浜田城主“田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)”以下四代の霊を祀ったと言われている。
その後、天保八年(1837)別社として御霊社を創建し、忠秀以下四代の霊を祀り直し、鵜森大明神に天照大御神と建速須佐之男命を祀って明治に至った。
明治四十二年(1909)神社合祀令により、菅原神社、御霊社、鵜森大明神を合祀し従来の鵜森大明神を現在の「鵜森神社」に改称した。」とありました。
「鵜森神社」と書かれた扁額がある向拝で、お詣りをさせていただきました<(_ _)>
御朱印
場所:鵜森神社



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