2019
08/04
日
今回は、前回の伊勢巡拝の時に時間なく行けなかった、伊勢神宮の別宮巡拝に行きました。まずはその一社『伊雑宮』(いざわのみや)に行きました(^^)/
今回は伊勢神宮の別宮のみを全て廻ってきましたので、順番にUPしていきます。
伊雑宮は三重県志摩市磯部町上之郷に鎮座し、志摩国一宮の神社になります。
国道167号線沿いからの参道入口になりますが、さすがに国道です、通行量が多いのでこの写真撮るのはとても恐かったです(^^;)
入口右手にありました、社号標と言っていいのかわかりませんが、「皇大神宮別宮 伊雑宮」と書かれていました。
200m程中に入った左手に境内入口がありました。
駐車場はこのちょっと手前道路沿いにあります。境内入口にも先程の社号標と同じような看板が立っています。

境内入口には木製の鳥居(伊勢鳥居)がありました。
鳥居をくぐり中に入ると、左手に「伊雑宮衛士派出所」と書かれた建物がありました。
右手には、「伊雑宮宿衛屋」と書かれた社務所がありました。
神宮御料酒を左に見ながら、木々に包まれた真ん中の境内参道を進んで中に向かいます。
左手に手水舎がありましたので、身を清めます。
参道を若干左にカーブしながら進んだ先に最初にありましたのは、「祓所」です。
祓所の右手には、忌火屋殿と言われる建物がありました。「忌火」は「清浄な火」を意味し、神宮では神饌をととのえるために木と木を擦り合わせた摩擦熱で火を起こします。忌火屋殿は神様に食事を捧げるための台所のことを言います。
更に奥に進みますと、伊雑宮が見えてきました。
伊雑宮の手前には、「古殿地」と呼ばれる空地がありますが、これは伊勢神宮では20年に1度行われる「遷宮」をおこなうため、今の社殿は残したまま新たに社殿を造営する為の土地になります。
神明造りの社殿全景にです。御祭神は天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)になります。
ご鎮座の由緒と歴史は、
「当宮の創立は、約二千年前、第十一代垂仁天皇の御代といわれます。『倭姫命世記』は、皇大神宮ご鎮座の後に御贄地を定めるため倭姫命が志摩国を巡行された後、伊佐波登美命が豊かな稲を奉り、この地に神殿を造営したと伝えます。また、延暦二十三(804)年朝廷に提出された『皇太神宮儀式帳』にも宮名が見えることから、少なくともそれ以前から神宮の別宮として位置付けられていたと考えられます。志摩地方は奈良時代以前から海洋部族である磯部氏の根拠地であり、彼らがお祭りしていた神の社と、当宮との関係については様々な説が挙がっていますが、いつから朝廷が関わることになったかなどは未だ明確ではありません。
鎌倉時代に編集された『吾妻鏡』には、源頼朝が神宮に祈願した際、神馬を伊雜宮に贈ったと記されています。この頃、神領を守るため、伊雜御浦惣検校職が置かれましたが、室町時代以降は力が衰え、江戸時代初頭、二度の仮殿遷宮は、磯部の郷人の手によって行われました。
中世になると伊雜宮にも御師が現れ、明応から慶長(1492~1615)の頃には檀那(特定の寄進者)を持つに至りました。やがて、伊雜宮の神格を高めようと、磯部の御師の間に、内外両宮は伊雅宮の分家であるという主張が生まれます。『日本書紀』にある「磯宮」、『倭姫命世記』の「伊蘓宮」などが伊雜宮であるとの説を立て、神訴に及ぶことが重なりましたが、明暦四年(1658)朝廷からの綸旨・裁決によって伊雜宮は内宮の別宮と定められました。
地元の人々との長く深い関わりにより、伊雜宮には高欄を巡らし金銅飾金物を奉飾するなど他の別宮とは異なる点がありましたが、明治四十二年(1909)度の遷宮から他の別宮と同じ建築様式に改められました。」
と、頂いたパンフレットに書かれていました。
拝殿正面にある鳥居をくぐって前に進みます。
拝殿にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
境内はほとんどが高木に囲まれているため、陽の光もあまり届きませんが、古殿地のある場所だけ青空がのぞいているので、清々しさがあります。
帰りに先程の宿衛屋にて御朱印を書いていただきました。
御朱印
場所:伊雑宮



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