2019
07/16
火
諏訪大社上社本宮の参拝後、
駐車場に戻る途中にお寺らしきものを見つけ、寄ってきましたのが『法華寺』(ほっけじ)です(^^)/

本宮の東参道口のちょっと上に、赤い山門が見えました。
右手に「鷲峰山法華禅寺」(しゅうぶせんほっけぜんじ)と刻まれた寺号標がありました。
法華寺の沿革看板がありました。
「比叡山の開祖伝教大師が、弘仁六年(815)東国布教の際この地に巡錫し開山されたと伝えられ、もと天台宗であった。
鎌倉時代は禅宗が流行し、宋僧の蘭渓道隆が帰化、執権北条時頼の厚い帰依を得、建長寺を開山した。この頃、諏方社の大祝を退位し武士として幕府に仕えた諏方蓮仏入道盛重は鎌倉における重要な人物として、吾妻鏡に載った記事も多く、時頼の信任は、「おれが往生したら、直ぐ迎えにくるぞ」と遺言するほどであった。この盛重が道隆を招き法華寺を禅宗に改めて中興した。
天正十年(1582)三月、織田信長が武田勝頼征伐のとき、諏訪上社を焼き払い、この寺を本陣とし、三月十九日から四月二日まで十四日間滞在して論功行賞を行なった。この寺で信長が明智光秀をはずかしめて恨みをかい、二ヶ月後の六月二日の明け方、京都本能寺で命を落とす直接の原因になったと言われている。
元禄十五年(1702)赤穂浪士討入り後、吉良上野介の嗣子義周は高島城に流された。三年後、義周は二十二歳を一期として客死し、遺骸はこの寺の本堂裏山に葬られた。
法華寺一帯は、かつて他の三寺及び八ツの院坊を始めとして、普賢堂・五重塔・鐘楼・薬師堂・仁王門・釈迦堂など一大伽藍の様相を有していたが、明治維新の神仏分離令により悉く破却された。法華寺も廃寺になったが、明治五年に神宮寺学校の校舎となり、大正五年に統合中州小学校ができるまで、五十年間にわたって村の初等教育の場となっていた。
この間、千躰仏堂に遷った仙厳和尚は明治七年教導職試補に任ぜられ、のち地蔵寺として檀家をとり戻した。さらに明治三十二年九月、寛道和尚代法華寺の名をとり戻し、大正五年には再び旧地にかえった。
本堂は明治二年(1765)当地方出身で大隈流の名匠伊藤儀左衛門によって再建されたものであったが、平成十一年七月二十七日未明に放火により焼失した。
平成十七年五月、本堂・庫裡ともに再建されて復興した。」
~法華寺パンフレットより~
パンフレットでは山門とありますが、赤い楼門ですね~(^^)/ 扁額には「鷲峰山」と、山号が書かれていました。西日がちょうどまともに当たり、右側山肌の影から
撮っています(^^;)

門の柱に掲げられている寺札には「臨済宗妙心寺派 法華禅師」と墨書きされていますので、臨済宗妙心寺派の寺院とわかりました。
再建された本堂は横幅が大きくて、正面からは入り切りませんでしたので、ちょっと斜めからの全景です。境内の床は何故か緑色に塗られた塗り床で仕上げられていました(^_-)
本堂正面の向拝には釈迦三尊が書かれた扁額があります。右から「文殊大聖、本師釈迦如来、普賢菩薩」と書かれていました。御本尊は釈迦如来となります。
賽銭箱がございましたので、お参りをさせていただきました<(_ _)>
庫裡の玄関と、寺務所玄関になります。庫裡は住居のようです。寺務所にてお呼びしましたが、お昼時だったのもあり、誰も見えませんでしたので、庫裡でお声掛けさせていただいたら、住職に会えました(^^)/
先程の寺務所玄関から本堂内に案内していただき、ご本尊の前でお参りをさせてもらいました。真ん中が御本尊の釈迦如来、右が普賢菩薩、左は見えませんが文殊菩薩になります。
境内の東側には「大辨財尊天・大黒大尊天」を祀るお堂や、石碑・石仏が祀られています。
沿革にもありました、吉良上野介の嗣子義周の墓が法華寺の裏手の山間にあるようです。(今回は時間の関係で参っていません(^^;))
最後にもう一度、玄関を含めた全景になります。
突然の訪問でしたが、御朱印を書いていただきました。
場所:法華寺(諏訪市)



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