2019
05/18
土
美濃八幡神社の境内より、南東に向かう参道から道路に出、ちょっと北に
歩いたところにありますのは『清泰寺』(せいたいじ)です。

入口横の寺号標には、見えにくいですが「臨済宗清泰禅寺」と石柱に刻まれています。山号が書かれていませんが「安住山」です。臨済宗妙心寺派の寺院です。
一度通り過ぎましたが、入口左側の
駐車場入口には「本尊子育地蔵尊」「弘法大師」の石柱(石碑)がありました。

入口に戻り中に入ります。参道は石畳で、両脇に白い小石を敷き詰め、石垣で植樹帯を造った庭園さながらに整備されています。
突き当たりの塀に沿って行くと、高い位置に山門がありました。
塀は瓦の笠木があり、壁は瓦を埋め込んだ瓦塀になっていました。瓦の鬼飾りには「梅鉢」紋があります。つい先日紹介した長良天神神社の「丸に梅鉢」と同様(丸がない)の寺紋です。こちらの梅鉢は中興の祖である、金森長近の家紋になります。
境内へ入る手前(山門横)に、いくつかの堂がありました。先程の
駐車場入口にあった石碑は、ここにある堂のものです。

手水舎がありましたので、身を清めます。
奥にありましたのは「弘法堂」です。ここ清泰寺は、中濃八十八ヶ所霊場の第三十九番礼所となっています。向拝にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
弘法堂の手前に神社の拝殿みたいな所と、その後ろに「やすらぎ地蔵尊」がありました。
山門入って、左手に文化財の看板と、「金森長近公と清泰寺」の縁起がありました。
「此の寺内社は金森大権現と称し金森法印長近公を祀ったものです。金森長近公は典型的戦国武将で一介の武士から遂に飛騨国主となった人物。慶長五年(1600年)関ヶ原の功によって更に鉈尾山城佐藤氏の領地武儀郡(二万石)を加封され小倉山城を築き城下町上有地(こうずち)をつくりました。
その時、以安寺(佐藤氏菩提寺)を廃し此地に清泰寺を創建して菩提寺としました。
慶長十三年、長近公逝去。その霊を此所に祀ったもので江戸時代には南面して規模の大きい社でした。
小倉山城、金森氏は二代長光の幼死により断絶。その墓が本堂西側墓地にあり、鉈尾山城主佐藤氏二代の墓も以安寺より移されて同所にあります。」
腰袴のある鐘楼堂です。袴上の朱色がおしゃれです(^^)/
境内は名勝に指定される「清泰寺庭園」です。右側の本堂回りには更に築地塀があります。
石畳の突き当たりにあった門の中には「金森権現社」がありました。門の扁額には「金森大権現」と書かれています。
本堂前の封鎖されている入口は「勅使門」です。銅板葺き唐破風屋根の四脚唐門です。
玄関前には、立派な鬼瓦?が飾られていました。改修時に外されたものでしょうか?
大庫裏です。名勝だけあって、手入不足の植栽がないので何処を見ても絵になります。
今はもう使われていない玄関です。右に庫裏、左に本堂へ行きます。
本堂前の庭園(境内)です。塀内は芝が敷き詰められています。先程の勅使門が左にあり、奥にあるのは宝物庫かな?(これはわかりませんでした。。。)
その宝物庫は方形屋根で四角い建物です。唐破風の入口庇の装飾に龍まで付いています。
本堂正面です。横に長く
写真に入りきれません。。。

本堂は瓦葺き入母屋造りで、雅な佇まいがあります。
本堂左奥には「霊光殿」と書かれた扁額が掲げられている、納骨堂でしょうか?(こちらも不明です(^^;))
本堂前です。山号「安住山」の扁額が掲げられていました。御本尊は釈迦如来になります。向拝はありませんので、堂内にてお参りをさせていただきました<(_ _)>
斜め横からの本堂全景です。京都風の美しい佇まいが、心を落ち着かせてくれます。
納経印は庫裏にていただきました。
場所:清泰寺



よければポチッとお願いします( ´ ▽ ` )ノ

この記事と関連する記事
AFTER「[岐阜県] 関市高賀山麗にある 高賀神社」
BEFORE「[岐阜県] 美濃市上有知の産土神 美濃八幡神社」
COMMENT