2019
04/16
火
報徳二宮神社に続いては、小田原城址公園のちょっと東にある『松原神社』(まつばらじんじゃ)に行きました(^^)/ タイトルにも書きましたが、松原神社は旧東海道沿いにあり、小田原宿の総鎮守として長い間、小田原の人々に崇敬されてきました。
南側の境内境界は塀で囲われていて、門柱の建つ入口から中に入ります。
入口の右側には「縣社松原神社」と社号標に刻まれています。社格は縣社になります。
太鼓橋(神橋)を渡った所に、石製の第一鳥居がありました。参拝日は正月の三日だったので、謹賀新年の看板があります(^^;)
鳥居をくぐった右手に、手水舎がありましたので、身を清めます。水盤正面には「左三つ巴」の神紋がありました。代々小田原を納めていた人の家紋でしょうか?
手水舎の後ろには、「神庫」と書かれた御神輿が保管されている建物がありました。小田原市内最大のお祭りである5月の例大祭でお目にかかれるようです。
「松原神社社誌」と書かれた掲示板に由緒がありました。
「縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが古老の口碑に依れば近衛天皇久安年間の勧請なると云はれている。後醍醐天皇の頃当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと云う。
後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り当社の本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。明応四年北条氏の小田原を治めるに当り当社への尊崇頗る厚く鎮守として社領一万石を寄せ氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。天正十八年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永九年稲葉氏の領となっても亦、鎮守として崇祀し社費は悉く藩財を以て之に当てた。霊元天皇貞享三年旧領主大久保氏が封を再び此の地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守として崇敬前代に劣らず代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。明治二年松原神社と改称し、明治六年一月旧足柄縣に於いて縣社と定められ、明治四十年四月二日神饌幣帛料供進神社に指定された。」 と書かれていました。
「吉兆の大亀」の石像と由縁が書かれていました。
「天文十四年(1545年)三月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。
果たして翌天文十五年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。
この石像亀はその話に由来して作られた(制作年不明・頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌・心願成就・開運・勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、百円納めると百日、千円納めると千日寿命が延びると言われております。」
境内参道の左右には境内社(住吉、鹿島、手置、稲荷、八幡)が数社あります。
大きくそびえ立った松の木に見下ろされるように、社殿前には石製の第二鳥居がありました。
第二鳥居には「松原神社」と社名が書かれた扁額が掲げられていました。
社殿(拝殿)です。主祭神は日本武命(やまとたけるのみこと)、素戔嗚命(すさのおのみこと)、宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)となります。
拝殿にてお詣りをさせていただきました<(_ _)>
社務所にて御朱印をいただいて参りました。
御朱印
場所:松原神社



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